週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

詐欺的な側面

対象に対して、故意に不安を作り出し、それを解消する為に、金銭を支払わせるという手法。それは、詐欺とも言われているであろうか。ただ、そういった側面は、どの商売においても、少なからず存在している側面なのであろう。 教育であり、防犯であり、安全で…

サイレン

救急車、パトカー、消防車などの緊急車両は、サイレンを鳴らしながら走行する時がある。その音に対しては、法的にのみならず、社会の中でも、優先させるべきという共通認識を持っているであろうか。 社会がその状況の緊急性を認め、順番を待たなくても良いと…

休み

休むという行為は、その先の目的に戻るという前提の上で、行うものなのであろう。その目的がない休みは、休みにはなっていないのではなかろうか。 それは、休むという行為も、一つの行動であり、流れの中に組み込むことで、体であり、無意識の自分も、その休…

肩書きと自由

その相手の情報を多く持っているということは、単に客観的に確認するための事実というデータの一種を持っているということでしかなく、純粋な関係性の深さを表すものではないのであろう。そして、その情報という客観的事実の蓄積における肩書きという側面に…

その人のものだから好きにしていいのか

違法でないから、正しいというわけではなく、マナーに触れないから、良いというわけでもない。また、そもそも、良し悪しという判別を定めるということであり、要素を挙げるということが、結論であるとは限らない。 その人にとって、その行為であり、その消費…

春という季節は、好きな季節の一つであるが、あまり得意な季節ではない様に感じる時がある。切り替わりや始まりの多い時期であり、周囲が定まらず、ある種の不安定さがあるからであろうか。 人々が活動的になるという見方は、間違いではないと思うが、同時に…

いつまでも残り続けるのであろう

ごみに捨てたとして、物理的に人の認識できない形に変容したとして、人の記憶から消え去ったとして、そして、その意識を他者に伝えていないとして、一度生み出したその存在自体を完全に消せるわけではないのであろう。 日々、人は、他の存在を犠牲にし、同時…

循環と固定化

この季節の桜って、綺麗だなと思う。自然と近所を散歩し、足を止め、見入り、写真に撮ってしまう。 ただ、それだけとも言える。散歩し、足を止め、見て、春が来たと思い、綺麗だなと思うだけであり、その上で何かを考えさせられるものではない。もちろん、そ…

丸括弧

文章を書く際に、丸括弧を使いたくない時がある。自身の意識を表す時、自身の意識を乗せる時のものである。 その時の自分の意識の中に、少なからず、どこか逃げている様な側面を感じるのである。ただ、それは、根本的な部分における「逃げ」というものでは無…

一般的な議論の場について

共通言語という表面的に同質な手法を手に入れたことで、牛乳の様に良し悪しの関わらず一つの同じタンクに入れてしまい、平均化させてしまうのであろう。 考えを深めれば深めるほどに、相手は、それを理解できなくなる。同時に、一般的な議論では、説明と理解…

エネルギーの変換と意識の循環

何か一つの大きな物事を成した後というのは、あまり自身の中にあるものを発信しようという気にならないであろうか。 それは、自身の内在的な意識において、発信する姿勢が整っておらず、同時に、自身の行った物事に対しての内省であり、それらを含む展望に対…

季節という関係性

季節が移り変わっていくということ。冬や夏の前後に強く感じるものであろうか。冬や夏の始まりは、その寒さや暑さが徐々に到来することを憂鬱に感じる。ただ、それらが去っていくときに、暑さや寒さからの辛かったことを忘れ、私は、いつも寂しさを覚える。 …

手段であり、目的であり

貧乏揺すりというのも、自身の安定化に必死な表れの一つなのであろう。ただ、必死だからといって、全てが許されるわけではない。それは、真面目だから、良いというわけではないということにも言えるのであろう。 一つの評価軸における基準というものが、絶対…

焦りというものを、持つということ

その焦りという感情を取り除くのか、付き合うのか。それを取り除けるのであれば、取り除いても良いのかもしれない。ただ、それを取り除くことで、同時に取り除かれる他の存在もあるのであろう。その同時に取り除かれる存在が、当人にとって、本質的に必要な…

それらの答えを導き出す過程において

一つの事柄について語れば語るほどに、その事柄自体の価値は、減少していくのではなかろうか。だから、さらに語ることで、それを補完しようとするのであろう。 常にシンプルが良いというわけではない。時に、何も加えないことで、見いだせる形があり、時に、…

店員と客という対人関係の中の一つのケース

過剰接客によって、する側がそれで、自身達を守っているのであれば、ある意味で、される側も、守られている側面は、あるのかもしれない。 人間関係の希薄化を認識している現代において、壁を作らない人、壁を壊しにきてくれる人というのは、非常に求められて…

マニュアル

人は、満足という状態を欲しているというよりも、その状態によって得られるものを欲しているのではなかろうか。それらの一つに、安定感があるであろうか。 その安定感を得たいというよりも、満足していないことで生まれる、不安定な状態が嫌なのであろう。そ…

評価するということが難しいときがある

その結果に対する評価は、その集合体の基準や前提によって、決まってくるのであろう。それは、明確な括りの認識を持たされていない社会や世間という対象においても、同様である。そういう意味では、良し悪しの評価は、形式的で採点に近い様にも思える。それ…

その物事に必要な資源の量に対して、その物事にかける資源の量

その物事に必要な資源の量に対して、その物事にかける資源の量。それは、時に無理な程度の減少のさせ方となり、その差異による負荷が積み重なることで、大きな影響に繋がることもある。時間であり、健康であり、余暇などの資源をどの様に活用するのか。それ…

餅を食べるということ

正月には、毎年の様に、餅による死傷者についてのニュースが報じられる。他の食べ物に比べて餅による死傷率が、高いかどうかは分からない。ただ、その危険性を分かっていても食べるという側面は、変わらないのではなかろうか。 自分は、大丈夫と思うからか。…

今だから気が付けること

昔に比べて、物質的な常識を整えていくことに対して、喜びを感じると同時に哀しみの様な感覚も持っている自分に気が付くことがある。それは、何かを手に入れることへの安心であると同時に何かを失うことへの不安と言えるのかもしれない。 お金の無かった昔の…

思考の循環と教育者の現役性

■ 情報であり、知識や意識というものは、自身にとって、時に財産でもあり、出し渋ってしまうこともある。ただ、それらを自身から一旦出してしまうことで、また新しいものが入ってくる、もしくは、自身の中から生み出されるのではなかろうか。情報であり、知…

人における情報と意識の循環

何かの目的の為にあるものの接種を断つということ。健康や仕事の改善の為に。その対象への欲求を高め、感受をより強める為に。中毒や依存などの様に、自身におけるある種の特徴を平均という枠に戻す為に。 そして、具体的に何かを得られるのか分からないが、…

制服

制服という概念における一つの枠という側面。それを使えば、高い確率でこうなるという側面であり、教科書の様なものとも言える。そもそも装いであり、外見全般にも言えることか。どういったものを着れば、どういう印象になるのか。 それを行えば、大きな間違…

見栄を張るということ

人は、見栄を張り、適度に謙遜し、時に恐縮する。そして、自身の所属する集合体や組織において、本音と建前を使い分ける。 それらの行為によって、何かしらの側面が守られているのであろう。それは、同時に、自身の枠を固定化させているとも言える。また、そ…

一長一短の外側

色気が過ぎれば、いやらしく下品になり、可愛さが過ぎれば、幼くなり、美人も過ぎれば、きつく怒っている様に見られてしまう。 二つの対比させられるベクトル。それは、本質的には、二つの相反するベクトルだけで完結しているというわけではなく、一つのベク…

故郷

そこに戻ってきてしまう、帰りたくなってしまう場所であり、者であり、物事。その感覚の所持というのは、まだ自身が、その側面において故郷的な存在に大きく影響されているということなのであろう。そして、その存在を忘れ、時に思い出す程度になった時、自…

非常識の中にある常識性

ある作家がテレビの番組に出演していた際に、作家になった理由を聞かれ、「作家になるしかなかったんだよ。」と答えていた。横に居たタレントが、「カッコいいですね。」と反応していたのを覚えている。 作家という職業に憧れ、目指し、その肩書きを手に入れ…

人における計画性という能力

人という種と他の生物との違いの一つに、計画性という能力があるのではなかろうか。それは、他の生物にもある能力ではあるが、比較した場合に、その大きさは、無に等しいとも言えるのではなかろうか。 その計画性という側面は、万人に行き渡り、平均化するこ…

再考という行為について

無意識の自分が、有意識の私にはあまり相談せずに、決定し実行された再考という行為は、私にとっては、憂鬱なものになってくるのであろう。もちろん、憂鬱という状態が、必ずしも排除すべき状態とは、言い切れないであろうし、少なくとも、私にとって、それ…

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