週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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今だから気が付けること

 昔に比べて、物質的な常識を整えていくことに対して、喜びを感じると同時に哀しみの様な感覚も持っている自分に気が付くことがある。それは、何かを手に入れることへの安心であると同時に何かを失うことへの不安と言えるのかもしれない。
 お金の無かった昔の我慢していた自分であり、工夫に価値を見い出していた自分に対して、どこかで否定してしまっている自分を感じるからであろうか。それは、今思えば、その常識を手に入れることは、そんなに大変なことではなかったのではなかろうかという意識があるからなのかもしれない。確かに当時、例えばバイトをする時間であり、手に入れる手段が無かったというわけでもない。
 ただ、当時の私にとって、その常識を手に入れる為に何かを差しだすということは、大小ではなく、有無の問題だったのであろう。そして、その常識をあえて手に入れない姿勢であったり、その常識を手に入れることへの嫌悪感やこだわりというものが、今の私から見れば、当時の自分の魅力であり、今の自分の礎になっているとも言えるのであろう。
 今も別に根本的に、その姿勢は変わっていないと思う。単に、目的の明確性によって、妥協できる様になっただけであったり、感じさせる機会が減っただけなのであろう。それは、同時にそれだけ自分の扱い方を覚えたということでもある。自分にちょうど良い費用対効果の按配が判ってきたということ。
 別に、今の自分が、決して安定しているというわけでもない。ただ、昔に比べれば、不安定な側面は減ったし、不安定を想定して、計画することはできる様になってきている。昔の自分を振り返れば、あれだけの不安定な側面を抱えつつ、よく頑張っていたと思うが、まだ若さという言い訳ができた分だけ、今背負っている負担が軽かったとも言えるのであろう。
 これまでの一年一年を振り返れば、どの年のどの行動も、意味があったと思うし、全力であったと思う。ただ、その渦中にいた当時の自分がその様な強い意識を持てていたわけでもなく、同時に、その行動たちは、表面的に言えば、周囲にいわゆる行動として認識されるものではなかったのであろう。
 それら一つひとつの連なりと積み重ねによって、今の自分があるということ。だから、別に戻ろうとも思わない。そして、過去のそれらも含めて、必要な階段であるのであろう。

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