非常識の中にある常識性
ある作家がテレビの番組に出演していた際に、作家になった理由を聞かれ、「作家になるしかなかったんだよ。」と答えていた。横に居たタレントが、「カッコいいですね。」と反応していたのを覚えている。
作家という職業に憧れ、目指し、その肩書きを手に入れたというよりも、おそらくは、自身が今の日本における常識の中で、生計を立てつつ生きていく為には、その肩書きしか残されてなかったということなのではなかろうか。
少なくとも、サラリーマンなどの普通とされる肩書きというのは、甘えというわけではなく、自身というものを規定できる程度に自我を残すという前提の上では、現実的に難しいことだったのであろう。
常識的なことであるからと言って、誰にでも出来るというわけではない。同時に、ある行為が誰にとっても困難であるわけでも、誰にとっても簡易であるというわけでもなく、完全な基準となれるわけでもない。
時にそれは、常識という名を借りた、多数が入り易く、扱い易い枠に過ぎないのではなかろうか。そして、常識という基準に人々が合せているわけではなく、個々の枠の重なり合いの濃い部分であり、多数決に近いのであろう。
否の中の正、正の中の否。正否も二つの相反するベクトルではなく、双方の枠があるということであり、そして、時にその二つの枠が重なり合う部分があるということなのではなかろうか。
また、非常識とされる人々の中にも、常識は存在するということであり、彼等は、本質的には、意外なほどに普通なのではなかろうか。そのベースの上に、何を付加させてきたのか。
同時に、本質的に非常識な人は、おそらくは、この世に実績を残せないのではなかろうか。実績を残すには、普通な人々の賛成を集めなければならないのであるから。
それは、つまりは、我々の社会の本質的な部分は、非常識な存在を受け入れているわけではないということでもあるのであろう。