週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

その人のものだから好きにしていいのか

 違法でないから、正しいというわけではなく、マナーに触れないから、良いというわけでもない。また、そもそも、良し悪しという判別を定めるということであり、要素を挙げるということが、結論であるとは限らない。
 その人にとって、その行為であり、その消費は必要な物事なのであろう。その事象への意義の見え易さには、常に差異があり、そして、意義の有無というものは、その存在している意義を見つけられるかどうかである。
 他者の行為に対して、自身の中で、意義を見つけられないというその感覚は、他人の無駄な努力であったり、矛盾している言動に対しても持つことがあるであろうか。
 どの基準においても、それは絶対的な基準ではなく、その個人であり、枠における基準でしかない。その基準が、社会的に承認されていたとしても、それは、その範囲が大きくなっただけであり、本質的な部分は、変わらないのであろう。
 その行為が、結果的に失敗していようとも、不幸になろうとも、後悔していようとも、それが不正解とも限らないのではなかろうか。
 試験の問いと違い、正否を出しても、出さなくても済む話とも言えるし、その解答を保留し続けても、ある意味で、どうとでもなるとも言えるのではなかろうか。それは、ある意味では、その事象と、向き合わなくても良い人もいるからなのであろう。
 答えというものを出すというのは、楽に向かう行為とも言える。ある程度の段階にまで至っている上で、さらに考え続けることに比べれば、答えを出すという行為の方が、少なからず、楽になるのであろう。
 それは同時に、その事象との関係性の濃度が、薄まるという行為にも繋がっている。

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