一長一短の外側
色気が過ぎれば、いやらしく下品になり、可愛さが過ぎれば、幼くなり、美人も過ぎれば、きつく怒っている様に見られてしまう。
二つの対比させられるベクトル。それは、本質的には、二つの相反するベクトルだけで完結しているというわけではなく、一つのベクトル上の一部分を切り取ったに過ぎないのではなかろうか。それは、言葉という概念において、対義というものは、一方向にのみあるわけではないということなのであろう。
同時にそれは、一次元だけでなく、他の次元にも言えることなのであろう。物理的であり、精神的であり、その世界の盤上にどの様な枠を作り、肩書きという規定を与えるのか。そして、その枠を超えることで、他の概念の枠に入っていく。
また、それは、善という概念においてもいえることでもある。善行も過ぎれば、それは、善では無くなっていくのではなかろうか。つまりは、善と定められた方向性があるというわけではなく、一つの方向性の上に善という範囲が設定されているということなのであろう。
そして、その範囲の更新というものは、個々人の有意識においては、あまり行われていないかもしれないが、集合体という単位で俯瞰すれば、それは、適度に変化しているとも言えるのではなかろうか。