故郷
そこに戻ってきてしまう、帰りたくなってしまう場所であり、者であり、物事。その感覚の所持というのは、まだ自身が、その側面において故郷的な存在に大きく影響されているということなのであろう。そして、その存在を忘れ、時に思い出す程度になった時、自身のその側面における礎の一つの段階が、構築されたという証拠なのであろう。
もちろん、与えられた礎を使って生きることの良し悪しを問いたいわけではない。少なくとも、全ての側面において、新たな礎を構築する必要はないのであろう。誰であれ、どの様な者であれ、自身の中の多くの側面であり、主要な基盤の部分は、与えられたものを使っているのではなかろうか。その上に、何を付加させていくのか。同時に、何を付加させないのか。
自身の意識における前の礎と新たな礎との戦い。無意識の中で両者を比較し、時に前の礎の全てを肯定し、時に前の礎の全てを否定する。そもそも、我々の中に根本的に礎の全くない側面というのは、無いのではなかろうか。それは、根本的に完全なフィクションは存在せず、少なからずノンフィクションに起因させられているということと同じ構造でもある。
そして、新たに一つの礎を構築することでしか、見ることのできない景色がある。