週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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丸括弧

 文章を書く際に、丸括弧を使いたくない時がある。自身の意識を表す時、自身の意識を乗せる時のものである。
 その時の自分の意識の中に、少なからず、どこか逃げている様な側面を感じるのである。ただ、それは、根本的な部分における「逃げ」というものでは無い様に思う。その書いているテーマにおける主張で逃げているというわけではなく、その主張の表現の仕方であり、考え出された結果を表す際の自らの姿勢に、逃げの一端を感じるのである。
 逃げているというよりも、楽をしているといった方が近いかもしれない。時にどこかその括弧内の言葉や意識、存在を二軍扱いにしている様であり、時に言い訳を正当化させている様であり、そして、その言葉と、それを表現している自分が矢面に立っていない様に思えるのである。
 一定の状態以上でその言葉を表さなければ、それは、表面上では同じであっても、全く違った存在になってしまうのではなかろうか。それが出来ないのであれば、むしろ、今回は、使わない方が良いのではなかろうかとも考える。それができないということは、その言葉をちゃんと扱えていないということでもある。その言葉を扱える様に、自身の意識を強化させてから、使っても良いのではなかろうか。
 もちろん、どうしても必要であったり、無理に使わないことで、逆に本質的な部分の意図が変化してしまったり、より良い伝わり方に出来なくなる場合もある。その際には、私も使うのであろう。使わないことが正しいわけでもない。そういう意味でも、姿勢なのである。
 他者に対しても、その考えが当て嵌まるとはあまり考えていない。少なくとも、矯正しようとは思わない。もちろん、指摘が必要な場合もあるのであろう。
 他者も括弧を使うことで、自身の現状においての精一杯のものを表現しようとしている時もあるのであろう。または、その表現しようとしている意識を特別扱いしているのかもしれない。
 基本的には、私の中での方針でしかないとも言える。他者には、他者の考えがあり、何よりも、その人の良さというものは、私と同じではない。その姿勢というものが、その人らしさを形成し、持続させるのではなかろうか。
 何かの枠を設定し、それに当て嵌めるというのは、する側も、される側も、総合的に鑑みれば、楽なのかもしれない。もちろん、それが、必要な場合も多々ある。
 ただ、それを私は、しない様にしている。提案は、する。それも、私にしかできない提案を出来るようにしていきたい。それは、出来るようになると同時に、出来るようにし続けるということでもある。

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