週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

制服

 制服という概念における一つの枠という側面。それを使えば、高い確率でこうなるという側面であり、教科書の様なものとも言える。そもそも装いであり、外見全般にも言えることか。どういったものを着れば、どういう印象になるのか。
 それを行えば、大きな間違えにはならないというセオリー。その側面が不得手な者にとっては、簡易に平均を手にすることができる。同時に、セオリーが存在することを束縛とも言えるし、セオリーが存在しないことを自由とも言える。
 ある集合体において規定された制服という概念は、セオリーという意識が収束し固定化された様なものなのではなかろうか。その枠は、狭く、そして、その枠は、そう簡単には動かないものである。企業が、大企業であればあるほど、その組織として、変えにくいという様に。もちろん、その大きな枠があるからこそ、その側面において、一定の安定性を作り出し、他の中小の存在がアクセントとしての役割に専念できるとも言える。
 制服という枠は、その枠に染められている感覚を持ちにくいのではなかろうか。ただ、それは、制服に限ったわけではなく、そもそも、人は、既に、人という枠に染められ、囚われているわけではある。もちろん、それによって、人として、安定的に存在し続けられているわけでもある。
 何かしらの枠に囚われ、染められることで、その側面を均一化させる。そして、それによって、その他の側面による個々の差別化を試み始めるのであろう。それは、その側面の進化を試み始めることでもあるのではなかろうか。
 そして、その試みは、順番に回っているのであろう。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth