見栄を張るということ
人は、見栄を張り、適度に謙遜し、時に恐縮する。そして、自身の所属する集合体や組織において、本音と建前を使い分ける。
それらの行為によって、何かしらの側面が守られているのであろう。それは、同時に、自身の枠を固定化させているとも言える。また、それらの行為において、世代や地域、そして個々人によって、基準の差異が存在する。その差異は、有無ではなく、大小であり、さらに言えば、枠や側面の違いなのであろう。
見栄を張るという行為は、あまり良い様に受け取られないことの方が多く、また、その回数や量にも個人差があるであろうか。
器の大きさという側面は、その差を生み出す要因の一つなのであろう。ただ同時に、守るべきものの量であり、質の大きさも関わってくる。
守るべきものの量や質を小さく、低くすれば良いのではと言われる時代かもしれない。身軽に生きることが、一つの生き方として認められてはいる。それは、必要に応じての変化なのかもしれないが、以前の大きさの基準に押し潰された者が、多かったからなのかもしれない。
ただ、この側面は、ある種の誰かがやらなければならない、誰かが背負わなければならない類のものの一つなのではなかろうか。時に見栄を張ることで、自身の枠を保持することも必要なのであろう。個々の背負う量が減ることで、社会として背負う量が減り、それは社会として、一つの側面における枠の狭さに繋がっていくのではなかろうか。
別に誰かが頼んだわけでもなく、無理に誰かがやるべきでもなく、それらによって、その側面が衰退するということは、それが社会であり、人々の選択であるとも言える。
感謝や賞賛をしなければならないとは思わない。承認や理解をしなければならないとも思わない。ただ、認識さえも出来ていない段階なのではなかろうか。
また、虚によって作られた事実も、たま真実の内の一つなのではなかろうか。