週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

再考という行為について

 無意識の自分が、有意識の私にはあまり相談せずに、決定し実行された再考という行為は、私にとっては、憂鬱なものになってくるのであろう。もちろん、憂鬱という状態が、必ずしも排除すべき状態とは、言い切れないであろうし、少なくとも、私にとって、それは、必要な行為であると認識し、受け入れる様にしている。
 それは、慣れなどによって、何かしらの余裕が発生することで、可能になるのであろう。時間であり、体力であり、精神面であり。ただ、余裕というものも、決してこちらの都合の良い時に、望む側面であり、バランスで、もたらされるとは限らないのであろう。
 一つの大きな優先されていた事象が解消されたことによって、抑え付けられていた他の事象達は、次々と表に出ようとしてくる。それらに対応している状況であるとも言えるのであろう。それは、現実的な将来への不安であったり、また、逆に刺激への欲求であったりするのであろう。
 それを行うことで、何か新しく具体的な成果物が手に入るわけではないのかもしれない。もちろん、その対象と向き合ったという経験が成果物ということもできるが。また、自身の中で、新たなエネルギーは生まれるのかもしれない。ただ、それは、決して多くの場合に発生するわけではないのではなかろうか。
 ただ、少なくとも、自身における再考したその側面の意識や姿勢は、太くなるのであろう。それは、現状の安定から、より高次の安定に至る為に、不安定を経ることで、その側面を太くしていく様に。そして、それを無意識の自分が行うのか、有意識の自分が行うのか。
 再考という行為は、個人差はあれども、人が生きる為に必要な行いの一つなのであろう。そして、目標や目的という存在も、厳密には固定化されておらず、流動的で、消費されていくものなのではなかろうか。だからこそ、再考という行為によって、更新させる必要があるのであろう。
 そして、ある意味で、上記の時間や体力などと並列に考えられることもあるのではなかろうか。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth