週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

思考の循環と教育者の現役性


 情報であり、知識や意識というものは、自身にとって、時に財産でもあり、出し渋ってしまうこともある。ただ、それらを自身から一旦出してしまうことで、また新しいものが入ってくる、もしくは、自身の中から生み出されるのではなかろうか。情報であり、知識や意識というものも、経済におけるお金と同じ様に、循環するという側面があるということなのであろう。
 それは、自身において、それらを収納しておく場所が空くからであろうか。それらを収納できる自身における量には、限度はあるということなのであろう。もちろん、その限度は、拡張させられるものなのであろう。
 そして、循環させながら、自身の限度を横に広げるのか、縦に深めるのか。


 教育者におけるプレイヤーとしての側面。基本的には、教育者における現役さは、必要なのではなかろうか。もちろん、現役かどうかの境界線は曖昧であり、現役性の割合と言った方が近いであろうか。同時に、肉体的な現役性は、必須ではないのであろう。その分野において、自身の意識を高め続ける姿勢があるかどうか。
 一定以上の現役性によってできることの一つに、教科書の流動性があるであろうか。新しい枠を受け入れられるかどうか。既存の枠に、収まらない対象をどの様に対応するのか。そういった存在を、自身の成長や変化の糧として見るのか。矯正する対象として見るのか。ただ、必ずしも、前者が善で、後者が悪というわけではないのであろう。
 どこまでの枠を受け止められる様にしたいのかどうか。成長を止めるということは、自身の枠の成長を止めることであり、その枠の外の存在への拒否であり、否定に繋がっていくのであろう。
 また、受験勉強や資格取得など様な一つの規定された枠を教える場合には、現役性は、それほど重要ではないのでのかもしれない。もちろん、付加価値として、教えられることは、多々ある。善し悪しと言うよりも、役割分担か。
 そして、どの側面に対しての現役性を継続させ、高めていくのかどうか。

 

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