肩書きと自由
その相手の情報を多く持っているということは、単に客観的に確認するための事実というデータの一種を持っているということでしかなく、純粋な関係性の深さを表すものではないのであろう。そして、その情報という客観的事実の蓄積における肩書きという側面に、どれだけ依存するのか。また、世間の基準というものは、その後ろ盾は大きく、逆に、自分の基準というものは、常にリスクが付きまとう。
いわゆる自由という状態も、自己責任の拡充化でもある。その自己責任を全うできる様になれる、量であり、質の教育を同時に行わなければ、無責任とも言えるのであろう。同時に、何かしら少なからずの束縛の上で、存在という行為を可能にしているのであるから、自由という状態の実感は、単なる比較でしかない。
自由を与えるというのは、その束縛する為の枠の調整における、広げるという選択である。そして、その按配を相手が好むかどうかは、限らず、同時に、より自由な状態が、常に素晴らしいとは限らない。
その枠の調整を、管理する側が管理される側にするというのは、ある種の表面的な変化であり、本質的な枠の変化は、その社会という一つの自我が、その中の数多の要素との関係性の中で、変容していくものなのかもしれない。
そして、人間は、その中の要素の一つでしかないのであろう。