一般的な議論の場について
共通言語という表面的に同質な手法を手に入れたことで、牛乳の様に良し悪しの関わらず一つの同じタンクに入れてしまい、平均化させてしまうのであろう。
考えを深めれば深めるほどに、相手は、それを理解できなくなる。同時に、一般的な議論では、説明と理解という二つの能力の不足において、前者の方が理不尽に求められていることが多い様に思えてならない。
分かり易さという側面は、確かに多くの人々に伝える際には、非常に意義のある手法に成り得るが、同意義における異なる言葉の選択による深みと奥行の創出という側面は、薄まるのであろう。
多くの場合、相手との差異を認識する為ではなく、自身の保守の為に、その議論を行っているのではなかろうか。それは、その意見に一定以上の思考を掛け、自身の一部となっているからなのであろう。
ただ、その姿勢を崩していかなければ、理解できていない相手のことを理解することは、難しいのであろう。相手の価値観や思考が理解出来ていないということは、その事象の良し悪しが分からないということであり、その様な物事に対して、否定するべきではないのではなかろうか。その理解の度合いは、有無ではなく、大小の話ではある。
主義を持つということであり、何かに対して言及をするというのは、非常に一つの意義を背負っている。しかし、それは、その意見の前提になる部分も同時に、提起できる思考を携えているという上での話なのであろう。