週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

餅を食べるということ

 正月には、毎年の様に、餅による死傷者についてのニュースが報じられる。他の食べ物に比べて餅による死傷率が、高いかどうかは分からない。ただ、その危険性を分かっていても食べるという側面は、変わらないのではなかろうか。
 自分は、大丈夫と思うからか。確かに、多くは高齢者という印象であり、加齢と共に徐々に危険性が上がっていくものなのであろう。だからこそ、その危険性の境界線が、見え難くなっているのではなかろうか。
 そのリスクを抑えてしまう程度の魅力があるという側面。それは、極論で言えば、死という概念が、全ての人の基準において、最悪の結果であるとは限らないということにも繋がっているのであろう。もし、死というものが全ての人にとって、最悪の結果なのであれば、全ての危険性を排除しようとするのではなかろうか。そして、現実的に、その全ての危険性を排除するのは、難しい様に思える。つまりは、ある程度の危険性を覚悟して、人は、日々の生活を送っている。それは、日本においては、有意識よりも、無意識でのそれが、大半であろうか。我々は、生という資源を日々消費しているということでもある。
 生という資源の消費の仕方において、他者への直接的な影響の見い出しがし易いものと、し難いもの。どちらであったとしても、本質的には同じくらいの意味合いはあるのではなかろうか。
 それは、餅を食すことにも言えることであり、少なくとも、その餅という存在自体には、それをされることは、大きな意味があるのであろう。また、人という括りにおいて、何かしらの側面を強化し、進化させる一つの要因になっているのであろう。
 そして、これらの側面を否定することも、同様である。

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