手段であり、目的であり
貧乏揺すりというのも、自身の安定化に必死な表れの一つなのであろう。ただ、必死だからといって、全てが許されるわけではない。それは、真面目だから、良いというわけではないということにも言えるのであろう。
一つの評価軸における基準というものが、絶対的な価値観ではなく、その時々の状況によって、変化する様に。一つの評価軸における基準というものは、目的の為の手段の様なものなのかもしれない。
良い奴だから、常に優遇されるわけではない。それは、一つの補助でしかないのであるから。根本的な部分で、大きな差異があるのであれば、同時に、良い奴の基準もずれていく。それは、有意識というよりも、無意識でのものであろうか。
それは、心が広いと言うことであり、理解があるという側面にも、同様のことが言える。その枠の基準は、絶対的な価値観ではなく、その集合体における、一つの枠が用意されているに過ぎない。彼らにとって、良い奴であり、彼らにとって、都合の良い人とも言える。
天才と馬鹿が紙一重なのは、彼等は、一つのベクトルの両端に居るわけではなく、常識という枠の外側に点在しているからである。そして、天才とは、ある意味で、普通でなければならないのである。普通の人々に理解され、認められなければならないのであるから。
そして、その手段によって達成された目的は、手段として次の目的に寄与させられる様になるのであろう