循環と固定化
この季節の桜って、綺麗だなと思う。自然と近所を散歩し、足を止め、見入り、写真に撮ってしまう。
ただ、それだけとも言える。散歩し、足を止め、見て、春が来たと思い、綺麗だなと思うだけであり、その上で何かを考えさせられるものではない。もちろん、その行為の過程に自然と考えることは多々あるが、それは、単に散歩という行為の効果でもあり、別に桜は不要なのかもしれない。それで良いと人は、言うのであろう。私も特に反対するつもりもないし、それで良いと思う。
ただ、それでその側面の意識を固定化させようとは思わない。携え続けることで、桜という概念と私の意識の間には、循環するものが存在し続ける。それによって、何かを消費させられることもあるのであるが、何かを与えられることもあるのである。
物事は、価値観を固定化させるからこそ、忘れられていくのではなかろうか。固定化させることで、確かに、その価値観を維持する為に必要なエネルギーは、大きく減少する。ただ、それは同時に、循環を止め、新たなエネルギーの流入を防いでしまうのではなかろうか。だから、ただ消費され続け、人々の意識の中から、消えてしまうのではなかろうか。
そして、価値観を固定化させているということは、その意識を伝えようとしている対象への不信の現れでもあるのであろう。