平等について
一つのその平等な状態ということは、同時に、一つの不公平な状態でもあるのであろう。
その社会であり、組織から受ける人々への資源や機会の平等性というものは、多数が、理解し、納得できる事柄に対してのものであり、多数が、理解し、納得できる資源であり、機会を与えるということなのであろう。対象範囲の拡大に比例して、相対化する側面によって、平等性への満足度の総量が、保たれているのであろう。
高濃度な平等感は、独断と偏見の中にこそ、あるように思える。それは、不平等という前提があるからこそ、当人が感じる平等感が高くなるのであろう。それは、平等であるからと言って、幸福であるとは限らないというだけの話なのかもしれない。だとすれば、人は、元来から平等性を求めているわけではないのではなかろうか。
人々の平等感が高い集合体におけるメカニズムは、異なる規模においても、同じなのであろう。そして、思想としての平等性も、全てを内包できるわけではないのではなかろうか。何かしらを排除し、何かしらを矯正することで、その枠の範囲は、保たれているのであろう。どこかで、与えられる側は、無意識において、妥協という譲歩をしているのではなかろうか。それは、その一つの平等な状態の維持に必要な要素なのであろう。そして、その妥協が有意識化された時に、不満化していくのかもしれない。