週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

「ウサギとカメ」

 過信という側面においては、一つの限定された条件下での話ではあるのであろう。単純に、勝てばいいという話。余裕でも、ギリギリでも。60以上点であれば、60点も、100点も同じということ。余った時間という資源を自由に使えるわけではない。それらを、他に活用できる状況において、ウサギは、果たして、昼寝に勤しむのか。
 人は、どこかで過信を経なければ、成長は、出来ないのではなかろうか。自信と過信は、同時に行われるのであろうから。だから次は、亀が過信をするかもしれない。亀は、自分が、劣っていると思うから、勝てたに過ぎない。立場は、簡単に入れ替わる。
 カメが正解で、ウサギが不正解というわけでもないのであろう。今回の条件下、結果において、ウサギは、一つの失敗を得て、亀は、一つの成功を得ただけなのであろう。だから、ウサギと同じ様に過信しても、勝てるかもしれないし、昼寝をしたことで、何かの危険から回避されるかもしれない。

 確かに、地道に積み重ねることは重要ではある。ただ、それは、暗に、可能性を潰しているのではなかろうか。地道以外の道を。一足飛びに楽に行う方法を画策する側面を、無にしては、全体としての幅は、縮まるし、全体として、縮小していくだけなのではなかろうか。出てきた杭として、叩かれようとも、そういった存在があってこそ、総合的に、拡大するわけである。ホリエモンや亀田家が無ければ、どちらの業界も、今の様な盛隆は、無かったのではなかろうか。また、現状維持であろうとも、成長と後退の繰り返しは、必要である。
 着実性というのは、一つの強みになり得る。ただ、常識的であり、行動も読み易いのではなかろうか。迎える側として、追われる側として、それは、ある種計算できる怖さにしか成り得ないのではなかろうか。正攻法とは、常識性でもあり、潰し方も簡単なのでは。上記の彼等は、大きく脅かされた、それまでの常識を覆られそうになったから、叩かれたわけである。

 また、これは、評価する側へのアンチテーゼなのかもしれない。ウサギを、さらに伸ばそうとはしていなかったのではなかろうか。単に勝てばいいと。だから、限界まで頑張らずに、60%くらいに怠けさせてしまったのではなかろうか。

 ウサギは、なぜカメと勝負したのか。ウサギからにしろ、カメからにしろ。実力が下の者と戦って、勝って、優越したいのか。自分よりも、実力が上の者と戦えば良いのではとも言われるか。それも、ちょっと違うか。その実力が上の者にも同様のことが言えるから。

 ウサギは、わざと負けのではなかろうか。それは、ウサギの優しさなのかもしれない。あえて、カメに勝たせたということ。カメとウサギへの前評判。それは、ある種の批判であり、否定である。カメは、ノロマで、間違いなくウサギが勝つはずだと。ウサギだけが知っている、カメの凄さを見せたかったのかもしれない。
 カメが、そのノロマというレッテルを受け入れていたとしても、ウサギにとっては、覆さずには居られなかったのかもしれない。だから、それは、ある意味では、優しさではなく、単なるエゴになるのかもしれない。だから、カメが、この結果を望んでいたとは限らない。ただ、勝つ気が無かったなら、寝ていたウサギを起こしていたのではなかろうか。ウサギの意図を察して、それを受け入れたのかもしれない。

 単純に、カメも、ウサギが寝ていたなら、起こしてあげれば良いのにとも思う。友達なのではないのか。そもそも、本気でないウサギに勝って、嬉しいのか。

 カメから挑んだのだとすれば、カメは、負ければ、さらに追い込まれる。単純なウサギの優しさか。その優しさは、甘さに近いか。

 ウサギの物語上のファンサービス。普通に勝つだけなら、物語にはなっていない。物語上の勝者はカメではあるが、前提を作ったのは、ウサギである。そうしなければ、そもそも、彼等は、我々の意識の中に、存在さえもできていない。

 ウサギは、得意種目で負けたという無意識の前提は、果たして正しいのか。肉体だけでなく、精神も、純然たる能力であるのであるから。つまりは、もっと、短距離や短時間の勝負であれば、カメに勝機は無かったのであろう。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth