「要するに」という言葉の役割
「要するに」という言葉を割りと使う方かもしれないし、使われる方かもしれない。あまり良い印象を受けない人も多いかもしれない。使う側に問題がある場合と、使われる側に問題がある場合があるのであろう。
恰好を付けて使う者も多いのであろうが、同時に、必死になって与えられた情報をまとめて、整理している者もいるのであろう。それは、単純な情報処理能力の違いとも限らない。
人の言語において、根本的に一つひとつの言葉の意味合いが一人ひとり異なる様に、その空間における無意識の公用語との言語の差異に起因するのであろう。その環境の中で、自分の言語への翻訳と意味合いの照合作業なのである。その差異は、認識されない段階の文化の違いであり、同時に、レベルの違いとも言えるし、性質の違いとも言える。
使われている環境があるということは、使わないで済む環境もあるということであり、使わせている環境があるということである。
「要するに」という言葉を使わなかったとしても、解消されない側面もあるのであろう。それは、言葉の選択の問題ではなく、その言葉に衝動的に乗せてしまう感情なのであろう。必死に対処する際に生まれる負荷の解消。
負の存在を排除しても、役割が変わり、新たな担当が決められるだけである。ちなみに、排除された存在は、消滅するとは限らない。
物事において、上に引っ張る存在であり、同時にその枠を広げる存在が担っている役割。それは、枠の境界線に居る為に理解されにくく、さらに、認識もされにくいのであろう。