知っているということと、分かっているということ
自身に対してであり、他者に対して、あえて加えないことで、見えてくるもの、作り出せるもの。
日常の中で、その理論自体は、多くの人であり、場面で使われているのであろう。ただ、他の場面において、その理論が流用できるということは、あまりないことなのであろう。
同時に、熟成という手法が用いられるのは、物質的な存在だけではなく、思考的な側面にも、用いられる。ただ、物質的な存在と違い、意識や精神というものは、その熟成のさせ方であり、確認における手法は、確立されていないのであろう。
何もしないことで、余裕を作り、何も、出さないことで、蓄える。そして、自分の中での醸成具合であり、熟成させてみたいという意識。物書きという職業にも、幾つかの種類があるが、それらは、その醸成の段階の差異によって、別れていくのかもしれない。
他者に対しての発信の為の蓄積ではなく、自身からあえてださず、自身の中にあえて、蓄積させるというのは、作家として必要な作業の一つなのであろう。少なくとも、一度自身から出たものへの再考は、必須なのであろう。