週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

生きる意味について

 現代の若者における「生きる意味」とは、どこにあるのであろうか。
 そもそも意味の規定という行為には、善悪の規定と同じ様に枠や前提が必要であるが、より本質的な意味においては、有るか無いかというよりも付加するかどうかなのであろう。
 現代の若者において、それ以前の世代達とは、考える上での前提は異なっている。
 それは、「生」というある種の資源の使い方の違いとも言えるであろうか。平均的に使い分けることで、長く生き続けるという手法は、既に証明されている。それによってその手法は、選択肢の一つになったのである。生き続けること自体を目的とし、その余暇で何かをすることと、その生き続けるということを手法として用いて何かをすることは、全く異なることである。また、凝縮された資源の使用という選択肢も、一般化していくかもしれない。
 人が生き続けられるかどうかの証明の段階は済んでおり、既に知識として保存されている。その状況の中で、単に生き続けるためだけに費用を払い続けることには、意義を見い出せなくなる者も居るのであろう。それは、与えられ方の違いによっては、使用しなければならないというストレスにも成り得る。「生」という資源の使用というものが、前提ではなく選択肢の一つでしかない段階とも言えるのであろう。
 生きることを否定したいわけでもなく、長生きや健康を否定したいわけでもなく、もちろん、自殺を推奨したいわけでもない。単なる提案のされ方で、その物事に対する印象が大きく変わるという話でしかない。
 そして、手法化したから前提では無くすることができるわけであり、だからこそ見られる風景がある。

 また、そんな彼等の中の一部は、単に個人における生きる意味の詮索の為に、怠惰と見られる日々を過ごしているわけではない。彼らが考えることで、集合体として考えなければならない物事に対しても、積み重ねられているのであろう。
 アクセントの一つとしての存在意義はあるが、それを有意識下において全うできているかどうかは限らない話である。それは、ベースの存在においても同様のことが言える。
 その二つ役割における見え方の差異は、その存在意義が、常識的な知覚力において、認識できるかどうかである。

 

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