一人ひとりの言語
ラ抜き言葉も、一つの言語なのであろう。希薄(きはく)を、「きうす」と読んではダメなのであろうか。これらは、間違っているのであろうか。正しい日本語とは、何のことを言っているのであろうか。
辞典など単なる平均であり、多数の集合体でしかないのであるから。多くの人が、その様に言っているだけであり、平均的にこれくらいの意味で使われることが多いというだけ。だから、時代によって、使われ方も、意味合いも推移していく。
同じ言葉でも、使う者や地域、場所によって、意味合いが異なることは、良くあることである。平均への認識は、場合によるのであろう。
一つの言葉だけを見ても、個々人で、その意味合いが、厳密に「=」であることなど、本当にあるのであろうか。常に、「≒」の域を越えないのではなかろうか。会話の中で、同じ意味合いとして認識し合っていたとしても、それは、厳密に「=」ではないのではなかろうか。でなければ、話し合いは必要ないし、食い違いもなくなるのであろう。
極論、一人ひとりにそれぞれの言語があるということ。だから、本質的に、全く同じ言語で括れるというわけではないのであろう。
もちろん、一つの正しさが示されることには、それなりに意味がある。ただ、それは、絶対的な正しさではないのであろう。一つの条件や前提における、一時的な正解は、幾らでも作れるのであろうが。
だから、一般的な教科としての国語は、教えられない。あまり教えられる自信もないし、それ以上に、教えるモチベーションがないといった方が近いのであろう。
国語に正しい答えなんてないと思うから。答えた者が、そう思ったのならば、それが、正解なのであろうから。算数の様に、完全な前提など存在していないのだから。もちろん、何でも良いというわけでもないが。そういう意味では、公正に採点ができるのは、漢字の問題くらいであろうか。
ただ、根本的には、漢字や算数にも、絶対的な正解があるわけでもない。算数は、規定された前提の上で「1+1=2」になるとされているだけで、絶対的な正解とは言えるわけではない。それは、国語の漢字も同様なのであろう。
今のやり方の必要性がないとは言わない。ただ、それが正しいと認識させ、それを基にしたテストで点数を取ることを良しとし、点数を取って喜ぶ彼等に対して、褒めることはできないのであろう。心の底から。だから、もちろん、勉強を強要することもできないのであろう。もちろん、何かしらの目的があるのなら、別にはなってくるが。
「作者がどう思ったか。」という問いに、正解などあるのであろうか。そういう意味では、私は、問題の作成者と、意見が合わない場合もあるのであろう。それは、問題の良し悪しとは、また違うものである。
つまりは、解く際に考えるべきは、作者の意見ではなく、「問題の作成者が、その作者がどう思ったと、推察しているか。」なのではなかろうか。又は、彼等が、我々に何を書かせようとしているのか。
本質的に、答えは、本文の中になどないのではなかろうか。作家は、文章の中に言語として全てを表すわけではない。だから、読解力が必要になってくるのである。
選択は自由である。「きはく」と読む人が、多かったり、それを正解とする人が多かったりするだけ。「きうす」と読む仲間を探せば良いだけ。
でも、それは、少ないのであろう。もしかしたら、社会的な地位が低い場合もあるのであろう。そこで、勝者のメンタリティを持つのは、厳しいかもしれない。
費用対効果として現実的に考えれば、「きうす」という読み方だけの為に、大勢に背こうという者は、ほぼ居ないのかもしれない。ただ、それが、当人にとって、当人せしめる部分を侵されるのであれば、それは変わってくるのかもしれない。