週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

横文字

 常に人は、無意識の中で、発する言葉に意識を乗せている。そして、常に人は、無意識の中で、その言葉の意識を受け取っている。会話というのは、言葉のやり取りではあるが、同時に、意識のやり取りでもある。使う側であり、使われる側において、言葉への意識の量と質の違いによって、交わされる意識の量に違いが出る。
 その場に置いて、一般化していない言葉を使うということは、その場において交わされる意識の量を減らすということでもある。その一般化とは、有無ではなく大小であり、その言葉への理解度とも言えるであろう。そして、それらの差違の多くは、有意識化されるほど、大きなものではない。だからこそ、蓄積していく。そして、それは、使われる側だけでなく、使う側にも言えることなのではなかろうか。
 もちろん、一般化が薄い物事は、そういった動きによって、一般化を濃くしていくとも言える。一つの最先端ではあるのであろう。
 同じ言葉を使っても、人であり、時によって、その言葉の意味は、変わっていく。それは、個々の言語の差によるものでもあるが、単純な個々の背景にある意識の蓄積の量と質の差でもある。言葉に乗せられる意識の量は、使った回数であり、使われた回数、そして、その都度の量によって、蓄積し、錬成され、質も変化していくのであろう。
 体験を含めた、情報の蓄積は、一つの切欠にはなるのであろう。ただ、それが、必ずしも意識の蓄積に繋がるとは、限らないのではなかろうか。

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