週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

「大人」という、その状況における一つの状態」

 人は、大人になるのか、大人という振る舞いを知っただけなのか。
 大人と子供の差は、本質的なものではなく、知識の差でしかないのではなかろうか。年齢的に子供でも、大人な人は居るのであろうし、その逆も然り。
 環境によって、変わる部分もある。肩書きが人を成長させるとも言われる。結婚して、子供が出来て、というのは、成長の機会や要素には成り得るし、弟や妹ができて、ということも同様である。守るべきものがあれば、年齢に対して、少なからず、変わるのであろう。
 環境の変化は、成長の可能性と言うのであれば、彼女や彼氏ができるということも同様である。ただ、一時的な場合もあるのであろう。別れたら、元に戻るということ。つまりは、その場合は、その存在によって、影響を受け続けていただけであり、根本的に当人の本質的な部分が変化したというわけではないのであろう。
 身体的な変化によっても、変わるのであろうし、経済的な変化や自立によっても変わるのであろう。それは、他者への依存の必要性の減少なのであろうか。または、平均に近づくということなのであろうか。大人という定義も、平均であり、多数の集合である。
 他からの影響によって、「なりたい。」にしろ、「ならなければならない。」にしろ、大人になろうとはしているのであろう。それを切欠にして、変わったということ。
 子供も、世間が求める子供という枠に類する言動や振る舞いはしているのであろう。無意識でもあるし、有意識でもあるし。好きでやっていることもあるのであろうし、何かしらへの配慮や自分への見返りを意識していることもあるのであろう。
 ただ、それは、根本的には、大人であり、人が、普段の日常の中で、他者と交わる際に、少なからず、行っていることではあるのであろう。子供だから、純粋というわけでもない。ある意味では、大人よりも、気を使っているとも言える。使い方が違うだけ。気を使って、空気を読まなければ、生きていけないのであろうから。彼等における弱者という側面は、否定し切れないのであろうから。
 もちろん、境界線が明確なわけでもないのであろう。少なくとも、その要素が、単一のものであったり、明確な枠が設定されているわけでもないのであろう。
 一般的なものと、本質的なものは、またその前提は異なってくるのであろう。前者は、世間の人々の認識においてであり、その平均や多数であり、後者は人によって変わってくる。本質的に、大人と子供を分ける要素は、非常に少ない様にも思える。そういう意味で、要素が多様になるのは、前者かもしれない。
 普通に、大人と子供の違いを考えた時に、それが、決定的な違いとは言い切れない。もちろん、大人的であり、子供的な側面という意味では当て嵌まるのであろうが。
 大人という領域における上限って、そんなに大きくはないのであろう。正負のベクトルの様に上下限がないわけではなく、大人も子供も、枠があるということなのではなかろうか。
 本質的に、人は、子供から大人になるというわけではないのであろう。最初から、子供でもなく、大人でもないとも言える。
 その都度、その状況に必要な形態に変化させているのであろう。必要な側面において、必要な量を、できる範囲の量で賄って、変化させ続けているということ。
 だからと言って、「本当の自分」というものが、あるということとは、また違うのではなかろうか。子供の自分も、大人の自分も、どちらも本当の自分とも言えるのであろう。
 仮面を付け替えているからと言って、その仮面の全てが、虚構の存在であるとは限らない。嘘を抱えていたとしても、それは、本当の自分が、抱えている姿の一つであるということには変わりはない。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth