週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

片鱗

 常識であり、普通よりも、負担が掛かる。同じことをやっても。それに何か問題があるのか。それだけの時間をかけたものには見えないのであろう。違いが分かる人の方が少ない。別にそういう凄さが分かるとか、分かって欲しいというものではないのであろう。
 自分の中での問題だから。評価を求めて、時間をかけているわけではないのであろう。単純に、自分が納得したいだけ。納得とは、有無ではなく、大小。だから、切りがない。単純に、評価を求めるのであれば、枠があり、答えが決まっている。だから、逆に、ある意味で、時間をかけない方法は、幾らか見い出せるのであろう。もちろん、切りがなくやることも幾らでもできるが。

 褒めれば、相手が喜ぶとは限らない。評価も、評価という枠の強要という側面も常に抱えている。肯定も同じ。時に、否定の方が欲しい時もある。否定されて、安心することもある。過去の自分への自身による否定を、肯定して欲しい時もある。その否定を否定するのは、誰の為なのか。相手の為ではなく、自分の為なのであろう。
 もちろん、リスクは、付きものである。リスクと、責任を背負えないのであれば、やるべきではない。ただ、攻めなければ、見に付けられない技術ではある。
 技術とは、常に、水物。使い続けなければ、衰える。肉体的な側面に限らず、勉強も、知識も、意識も、姿勢も、研究も、文化も、歴史も。

 どんなに異常な人でも、普通な側面は携えているもの。また、普通という枠の中での異常さ。それは、単なる趣味の違いでしかないとも言えるのかもしれない。
 常識と非常識を都合よく使い分ける。そもそも、人は、常に、常識的であり、非常識的でもあり。それぞれに、枠を持っていて、それが、「普通」という枠に収まっていることの方が、少ないであろうし、普通なのであろう。
 普通という異常さ。表面的に普通だから、中身も普通なわけではない。中身が、異常でも、普通に見えているのであれば、それは、異常なことをしているから、そう見せられるのであろう。
 常識があってこそ、非常識が、成り立つ。アクセントが、アクセントに成りうる。目立てる。どちらが良いとか、必要とかではなく、優先順位でもなく、両方とも必要なもの。順番と優先順位は、また違うのであろう。
 アクセントの中にも、ベースとアクセントはあるのであろうし、その逆もまた然り。ベースにおけるベースとアクセント。ただ、ベースは目立ち難いか。

 あらゆる問題において、特効薬なんてないのであろう。こうすれば、解決すると思った時点で、本筋や対象を見られなくなっている。
 ある虐げられている人を救えば、それによって、違う虐げられ方をされる人は、生まれるのであろう。何かを肯定するということは、何かを否定するということ。
 大人が、教育において、大抵に与えるべきと思っていることは、自分の経験からのものであり、それが、今の全ての子に当て嵌まるわけではない。一時であり、一部での正解でしかない。でも、別にそれで良いとは思う。
 ただ、それは、間違いなく絶対的な正解というわけではないのであろう。正解を見つけようとしていることも、そもそもずれているのであろう。ただ、正解を見つけようとする意識は、その枠の醸成に必要な要素ではある。法律であり、正義であり、平等であり。
 自分が特別だと思うことは、非常に重要ではあるが、中途半端な能力や異常さにおけるそれは、単純に、視野を失わせているだけなのであろう。ただ、それ自体が、目的な場合もあるのであろうから、別に意味がないというわけでもないのであろう。
 人類の為の地球環境問題。

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