我々は、何を見ているのであろうか
ドラマや映画。それは、見せてもらっているというよりも、見せられているという方が正しいのではなかろうか。
視聴者は、我々の為に、我々に向けて、作られている、演じているという感覚を持っているのではなかろうか。視聴者に向けられたサービスというよりも、スポーツの観戦に近いのでは。娯楽というよりかは、芸術や作品に近い。音楽も場合によっては、そうなのかもしれない。
彼等(演者)の意識が、どこに向いているのかという話であろうか。彼等は、ブラウン管の先を見ているのであろうか。
理由の一つは、映画を見ていて、その俳優が、相手の俳優との掛け合いを楽しんでいる様に思えたからか。彼等は、私を見ていないと思ったのであろうか。
ある意味では、カメラさえ意識していないとも言えるのかもしれない。入り込んでいるとも違う。相手の俳優との世界に浸っているという様な。
映像の中にあるライブ感。残す為というよりも、その時間を楽しんでいるのではなかろうか。撮る為の演技ではなく、俳優達のやり取りの映像記録とも言えるのでは。
同時に、我々には、分からないプレーがあるのであろう。意識や感情、機微の交錯。我々には分からない、見えない演技が含まれているのであろう。
スポーツで、超一流の選手同士でしか、成し得ない連係プレーがある様に。それは、派手ではなく、彼等にしか認識できない連携。その当人達だけが、そのプレーを認識しているということ。そして、遊び心。
演じ合う俳優同士のレベルが高くないと出来ない演技があるのであろう。相手のレベルが足りなければ、出せない技術もあるということ。作れない時間や風景、情景があるということ。
彼等は、互いに、仲間であり、同時に、敵なのであろう。
「今日は、誰だ。」
「彼奴か。」
「どう来るんだ。」
「そう来るのか。じゃあこういくか。」
勝とうとしているのかもしれないし、連携をしようとしているのかもしれないし、恋の片思いの様に、ただ盲目に追いかけているだけなのかもしれない。