週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

異常性について

 本質的な異常性は、それ自体が、苦しいわけではない。その異常性を纏ったまま、常識の枠の中に浸らなければならない状況だからである。それ自体が、大変なわけではなく、それを携えたまま、常識という枠の中で、日々を常識的に過ごさなければならないからである。
 例えば、シャイな子供の様に、行動することが自然であっても、それは、駄目なのだと感じて、最低限大人というレッテルを纏おうと思い、愛想良く振る舞うのであろう。その年齢ならば、そうしなければならないという社会の常識を受け入れているということなのであろうか。もちろん、その子供の様な行動をしたからと言って、別に、法律的な問題があるわけではない。そういう意味では、他者に、奇異な目で見られることが、嫌で、怖いだけなのか。
 もちろん、その常識の枠が、悪いというわけではない。彼らにも、彼らの役割があり、それがあることで、私が、その大変さを感じることができるのであろうし、違和感を持つこともできるのであろうから。
 例えば、元気というのも、平均だということ。昔のある時から徐々に、私自身における元気という状態の基準が変わっていった。それまで、自分が元気なタイプではないと思っていたし、それが、漠然と良くないことであると思っていた。自分にとっての平均的な状態に、基準を変えていったということ。その変化が、良いのか悪いのかは知らないが、「良くない状態にある。」という罪悪感や、自分の中では、普通の状態であるものを無理に違う状態に変えるという負担は、減ったのであろう。

 一時的な異常性というのも、使い様ではある。
 時に、元気のない自分を励まして、元気にさせることに、違和感を持つこともある。元気な状態にするということが、ある意味で、何かから、逃げている様にも思えるのである。その深さであり、状態でしか、向き合えないものから。
 ただ、単に甘えている、いじけている、落ち込んでいるだけの状態や者との線引きは、当人以上に、他者の判別は、難しいのであろう。
 風水などで、運気の悪い時期というものがあるらしい。ただ、それは、一つの基準の上での話である。社会の中で、普通に生きるという前提。その社会で生きる上で、難しくなる時期ということ。それは、何かしらの要素や側面が、非常に高くなる時期なのかもしれない。
 つまりは、その向上した側面が、活かせる場合もあるのであろう。芸術家というのは、そういった逸脱した側面も必要にはなるのであろう。ちなみに、その逸脱性は、本質的なものもあるのであろうし、同時に、後天的に一つの側面を圧倒的に蓄積したものもあるのであろう。

 憂鬱というのも、一時的な異常性の一つではあるか。
 憂鬱になるということは、時には、思考が研ぎ澄まされている状態とも言えるのではなかろうか。つまりは、その非常に憂鬱な状態が、極限の思考を欲している者にとっては、それを貰える機会なのかもしれない。
 ただ、表現において、最低限の制御は、しなければならないのであろう。そうしなければ、単なる愚痴になるだけかもしれない。
 また、憂鬱に浸ることで、解消されるものもあるのであろう。
 憂鬱という状態は、これまでであり、これからの事柄に対して、再考していることでもあるのであろう。
 最近、憂鬱という状態自体は、決して嫌な状態ではない場合も多い。むしろ、その状態に、楽しさを感じている時もあるのかもしれない。それは、今の私の思考や処理の能力が、高くなっているからかもしれない。普通の人だったら、対応し切れないのかもしれない。スポーツ選手のトレーニングを、一般人がやったら、怪我をする様に。ただ、周囲に対して、気は使うのであろうから、同時に、やり難さも感じては、いるのであろう。

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