週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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「他人の意見を否定しない。」ということ

 とあるワークショップやミーティングにおいて、「他人の意見を否定しない。」というルールを設ける場があると聞く。まあ、実際に、似た様な場に、参加したことはあるにはある。
 何かを虐げなければ、何かを差し示すということは、出来ないのではなかろうか。何かしらの主張とは、何かしらへの肯定であり、同時に、否定である。意見も、主張である。否定なくして、肯定できず。何かを肯定するということは、同時に何かしらを否定することでもある。
 全く何事も、否定していない主張とは、どの様なものなのか。それは、あるのか。あるとすれば、それは、ある意味で、彼等が否定をしている行為そのものの様にも思えてくる。若しくは、鳥籠の中での議論でしかないのでは。別にそれ自体が悪いとは思わない。
 議論とは、否定ができる状況でこそ意味がある様に思うが。まあ、そもそも、議論が目的ではなく、対話が目的とも言われるのかもしれない。だとしても、接触しなければ、対話もままならないのではなかろうか。合い入れないことを、確認することも、対話だとは思う。まあ、見えなかった共通点や共感の発掘はできるのであろう。
 「否定をしない議論」ということであろうか。つまりは、「否定という行為をしてはならない議論」ということか。「否定の無い議論」を目指すならまだ分かるか。

 不要で、浅はかで、表面的な否定があるというのは、確かに分かる。ただ、深い思考の上での否定と、浅はかな否定を、どう判別するのか。その境界線は、誰が、どう決めるのか。要不要を決められるほど、みんな考えているのであろうか。そもそも、それが例え、誰しもが納得する人物が判別したのだとしても、それは、その人の枠から、飛び出せる思考は、叶わないのであろう。
 根拠のない否定とかも、削減したいのであろうか。ただ、根拠があっても、相手が理解出来ないものは、どうするのか。それは、否定した側が、一生懸命に、説明する義務があるということなのか。表面的に、相手は、理解に対して、真摯に見えるのであろうが、無意識のレベルでは、ふんぞり返るのではなかろうか。もちろん、その境界線も、その場の常識が決める。
 意見を言い難い人が、言い難くなる様な否定のことを言っているのであろう。その否定されてしまった発言、それ自体の精査は、誰が行うのか。例えば、考えていないから、否定される。例えば、分かっていないから否定される。
 否定という行為への否定ではあるのであろう。
 相手が否定と思ったら否定か。統治者が、否定と思ったら、否定か。その場の多数が否定と思ったら否定か。漠然とでも、明確な、その場の常識が、否定と思えば否定か。
 そういう時間を設けるのであれば、理解はできるか。ただ、そもそも、じゃあ、考えましょうと言われて、考えることはできるのであろうか。例えば、「自由に考えましょう。」と、いきなり言われて、できるものであろうか。有無で言えば、できるとは思う。ただ、大小で言えば、大して差はないのではなかろうか。
 否定という行為を行わなければ、良い場なのであろうか。まあ、確かに、面倒臭い人が居た場合に、その人や行為を排除できる口実にはなるのであろう。

 まあ、その場の常識が嫌なら、参加しなければ良いというだけでもあるか。ただ、公平だとか、自由という言葉を簡単に使う様であれば、私は、違和感を拭い切れないのであろう。便宜的に、相手を弛緩させる為のものであるなら、理解はできる。まあ、そもそも、公平ということ自体が、よく分からないか。若しくは、何処か何も疑問も抱かずに、了承している雰囲気に対しての違和感であろうか。教師と生徒の恋愛の様に。
 別に、そういった場自体は、何も、根本的に存在を否定はしない。需要もあるのであろうし、担っている対象であり、役割は、間違いなくあるのであろう。もちろん、私が、認めたものが、全て正しいものだとか、良いものだなんて思ってもいない。
 何を目的とするかどうかの話であろうか。手法の一つということ。何となく、色々な意見が出た様な気になりたいのか、一点に集中して、最大値を目指したいのか。揶揄でもあるが、時に手法を目的にすることが、必要な場合もあるのであろう。成果よりも、それを実行したという結果だけが重要な時もある。
 その側面への自覚の有無によっては、得られるものは、変わってくるのであろう。場への意義への理解であり、得られるものと、得られないものへの認識によって、質と量が変わる。

 まあ、そういうことではないと、言われそうではあるが。

 手法を精査し、知識を蓄えるということは、時に大変に意義があると思う。ただ、多くの場合に、どうしても、順番が違う様に思えてならない。
 どうしても、課題に対して、小手先で挑んでいる様にしか思えない。その小手先が必要な時期や状態があるとは思う。ただ、その本質にアプローチできていない様に思えてならない。どこかでは、向き合わなければならないということ。最終的には、どこかで、接触しなければならないのでは。それに向けての途中なのであれば、分かる。
 個人的に、別に議論が好きなわけではない。ディスカッションと、ディベートの違いも、分からない。定義ではなく、実感としてである。相手が理解できないことは、発言する側が、説明しなければならない。そもそも、別に勝ちたいわけでもなく、正当性を証明したいわけでもないし、自分の主張を薄めてまで賛成が欲しいわけでもない。強いて言えば、共感できる人が居たら、嬉しいし、話せることは増えるか。前提が合うとか。

 手法の一つではあるのであろう。その手法を使う意義や効果は、それなりに分かるが、その手法を使って、その目的にしているものが、得られるのであろうか。費用対効果は、どうなのか。そこまでの費用を掛けて、たったそれだけの効果しか得られない様に思う。
 まあ、目的によるのであろう。話し難い人が、少しでも話せる様にということか。場で、態々話させる意味はあるのか。その人の意見を聞きたいのであれば、個人的に聞けば良い。そこで、どこまで聞けるかどうかは、その人のレベルや器次第である。それは、個人的にでも、場でも、同じ話である。
 正直、最終的には、よく分からないというか、形はそこまで見えてはこない。ただ、それが、現状における状態なのかもしれない。

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