週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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後悔するということ

 ある小説の一説に「昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じていた。」という言葉がある。
 そこだけを切り取れば、一般的には、「やらないよりも、やって失敗しろ。」「後悔しない様に生きろ。」という様に受け取られるのであろうか。

 本文では、昔は、そうであったが、今は違うと言っている。今は、そうではなくなっていると。
 今を表す為の文言に過ぎない。その文言自体に、当人的な意味合いは薄いのではなかろうか。補助的に使っているということ。今があって、その今を説明する為に、過去との比較の為に、用いているに過ぎない。
 以前と現在、その変化、違い、差違に対して、自分の中で、少なからず、想うところがあるということ。驚いている、戸惑っている、違和感を持っている。現在の状態で、そう思うことは、自身の中では、当然なのであるが、有意識の自身としては、そうは選ばないのではということ。二人の自分がいるということ。
 ある意味で、現在の状態として設定している自分が、まだ、当たり前にはなっていないのではなかろうか。まだ、変化の途中なのではなかろうか。だから、驚いてる。以前の自分と、今の自分に対して。
 人は、割りと簡単に、自分に対して戸惑う。自身という他人に対して。
 作品の中において、全ての文章が、本意というわけでもなく、深い意味合いを宿させているわけではない。時には、安直な表現や短絡的な文章や言葉も、必要ではある。同時に、それが作者の言葉であるというわけでもない。他者の言葉を代筆・代弁しているとも言える。

 ちなみに、「やることで、見えてくるものがある」という意味合いかもしれない。0を1にすることで、見えてくるものがあるということ。

 「しなかった。」ということも、一つの行為ではある。「しなかった」ということを「した」ということ。それが、有意識であり、無意識であったとしても。
 したことに対して、後悔しないのは、どうなのであろうか。後悔と反省は、違うということであろうか。ただ、重なる部分は、あるのであろう。「した」ということ自体への後悔であり、それによる結果への反省ということであろうか。
 ちなみに、後悔という意識があるから、それを次に活かそうとするのであろう。そして、後悔は、その動機の一つでしかない。反省も、その動機の一つ。
 人々の中で、後悔するということが、悪いことという無意識の前提はあるのではなかろうか。ただ、後悔することが悪いわけではないのであろう。
 次の機会に、活かせないことが、悪いことなのであろうか。ただ、そもそも、活かせないことも、悪いことなのであろうか。毎回後悔して、次に活かせないとして、それもまた、一つの生き方なのではなかろうか。それをどう評価できるか。それが、作家の仕事であり、役割の一つの様にも思う。作家の一つの側面は、そこに味わいを感じられるかどうかなのではなかろうか。
 後悔を次に活かさなければならないということは、基本的に、成長意欲を持っているという前提での話なのではなかろうか。なぜ、人は、成長する義務を負わされるのであろうか。それも、無意識の前提なのではなかろうか。ブルネイなどでは、逆に、それが、異端らしい。

 後悔とは、行為の有無や大小によって、違う結果を得ていたのであろうということ。そして、その結果が、自身にとって、有益であると想定されているのであろう。
 そういう意味で、この言葉は、有無なら、分かるが、大小は、ちょっと、食い違ってくるかもしれない。「やった」と、「やり切った」は違う。まあ、視点を変えれば、同じ話とも言えるであろう。大小も、有無の連続だということ。

 

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