週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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4月28日

 米を研ぐ時、ふと、気が付く。水を冷たいと感じなくなっている。窓を開けると、庭の桜は、葉が濃くなってきていた。外階段の手すりには、ジャスミンの枝が生い茂って、蕾を膨らませており、庭の飛び石の側には、三つ葉が生い茂り始めている。
 陽気が訪れて、服装を間違え易くなっている。時に一枚少なくて肌寒くなり、時に一枚多くて蒸し暑くなる。大抵は、後者であろうか。
 そう言えば、新入生と思っていた彼等は、新入生ではなかったのかもしれない。就活生は、この時期に増える印象はあるが、大概に通年存在しており、そんなに変わらない様にも思える。
 時に、社会の中では、新しい陽気な季節に心躍らせることを求められる。それを、要望と捉えるか、強要と捉えるか。ある意味では、口実であり、こじつけでもある。ある意味では、何も変わらないとも言える。
 だからと言って、それらを辞めて欲しいわけではない。彼らが、それをするから、私の一つの側面が存在でき、形成でき、継続できる。光と闇の様に逆も然りである。
 ちなみに、映画「アサシンクリード」のCMにおいて、アルタイルは、「闇に生き、光に奉仕する。」と、言っているが、彼は、ある意味では、その事象における闇を担い、光を作りだし、その事象に奉仕しているのではなかろうか。
 変化の季節ではあるのであろう。変化という側面において、それは常に、チャンスなのであろうが、同時に、ピンチでもあるのであろう。ピンチがチャンスとは、言われるが、同時に、チャンスも、ピンチなのである。
 私にとっては、ある意味で、物事が定まっておらず、中途半端で、不安定な季節にも感じられる。気候の変化にしろ、世間の動向にしろ、どこか浮き足立って、バタバタしている様に思えるからなのであろうか。私もその世間の一部であり、影響を受け、億劫で憂鬱な思考に浸かり難い季節なのかもしれない。
 季節が変化するから、我々も変化せざるを得ないのか。時が過ぎていくから、我々も付いて行かざるを得ないのか。
 我々が変化するから、季節も変わるのかもしれない。我々が動くから、時も付いてくるのかもしれない。

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