例えば、旨い不味いよりも、どの様に味わうか。
大人になったとしても、悪い意味での子供的な側面が無くなるわけではないのであろう。その側面における自身の枠が変化しているに過ぎない。広がり、狭まり、移る。同時に、その齢によって、世間からの常識も変わっていく。
社会から自立を求められる存在があると同時に、非自立を求められる存在も、あるのであろう。だから、子供らしさを求めるのかもしれない。
リーダーだから凄いのか、主催だから凄いのか。一流の参加者という関わり方もあるのではなかろうか。それは、評価され難い役割であるが、決して、もっと評価されなければならない存在とも思わない。評価という概念における、基盤の安定性も、必要なのではなかろうか。
表現という観点において、評価とは、数多ある視点の中の一つでしかない。その時、その状況でこそ作り出せるもの、中途半端だからこそ提供できるもの、未熟だからこそ導き出せるものがある。
良し悪しや意味の有無に、囚われ過ぎとも思えるが、無駄なことをしたら良いというわけでもない。意味を求めることは、前提として、非常に重要なのであろう。