週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

計画するということ

 計画を考えるという行為は、ある種の未知の領域への思考であり、同時に不安も作り出されるという側面は、拭いきれない。そして、不安は、出し始めたら切りがなくなる。基本的には、「やってダメだったらどうしよう。」という類の不安なのではなかろうか。その意識自体が悪いというわけではなく、バランスの問題なのであろう。

 逆にその方向を行き切ってしまった方が、戻る反動を利用して、流れに乗れるのかもしれない。両方の極端を知ってこそ、より本質的な平均の形態であり、意味を知ることができる。多くの場合に、片方の極端か、もしくは、どちらも中途半端な既知で、平均を基準として扱っているのではなかろうか。それは、単なる知識でしかないとも言える。

 両方の極端を知り難いという背景に、その行為へのハードルがあるのであろう。それは、マイナスに考えているという状態自体への自身における恐怖感であり、世間における否定感であろうか。ただ、何よりも、その地点から、戻ってくる方法が分からないというのが、大きいのではなかろうか。確かに、具体的で、楽な方法があるというわけではなく、戻ろうとする意識が、結果を作るだけではある。

 

 根本的な目的の有無という側面と似た様に、根本的な計画性の有無という側面も、無いとも言えるのであろう。そういう意味での比較ではあるが、どの計画性も、表面的なものとも言える。

 計画性とは、一つの手法の顕在化でもあるのであろう。計画をしないという計画性を含めて、無ければ行動が出来ないというわけではないであろうし、必ずしも良い結果に結びつくというわけでもないのであろう。

 そして、ある目的は、さらに大きな目的においての手法であり、逆に、ある目的の為に、さらに小さな目的が集まっている。

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