週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

自身を否定されるということ

 その表現が、表層的には普通の範囲における異端に見える場合にも、自身の真意を理解されない形での否定があるのであろう。逆に、真意を理解した上での否定は、一般的な感覚における負の対応ではなくなる。同時に、これは、肯定にも同様のことが言えることでもある。

 何かを表現し、発信するのであれば、それは、少なからず、他者からの否定を受けるものであり、その発信とは、人が生きること自体にも当て嵌まってくる。

 その現状に耐えられるかどうかは、必要である。ただ、耐える必要性を失くすことであり、耐えられるだけの理由を持つということも重要なのであろう。それは、時に覚悟と呼ばれるか。

 

 そもそも、必要以上の他者との関わりは、必要なのであろうか。人は、物質的にも、精神的にも、ある種、一人で生きていけるのであるから。同時に、人は、世間という枠の中で、他者との関わりを持っていても、本質的には孤独な存在である。

 なぜ、人々は、「人は一人では生きてはいけない。」と言うのか。生活における基本的な必要性のレベルの話ではない。人々は、少なくとも無意識下では、人が本質的には孤独な存在であることであり、孤独という状態を必要とし始めていることを、分かっているのであろう。

 しかし、それを他者、特に子供や障害者などの表面的な弱者に対して求めることが出来ない。それは、他者に対して厳しくできない自身への甘さなのか。その甘さの積み重ねが、大きな問題を生む可能性を積み重ねさせる。

 もしくは、その意識の常識化を、今の常識を形成している人々が、恐れているのかもしれない。だからこそ、世間は、世間の中に無意識の枠を設定し、抑制しているのであろう。

 一人で生きていけるという感覚と、他者と関わりたくないという感覚は、意識の中で相互に作用し合う。世間は、その側面を偏屈であると言い、同時に、その状態を憐れむであろうか。

 

 一般的な生きるという行為は、ある種他者からの否定に鈍感になるということとも言える。鈍感になることが困難なのであれば、それらの否定に対応できるだけの能力を手に入れるしかないのではなかろうか。それは、それらを撃退するという手法ではなく、向き合うと言った方が、近しいであろう。

 その能力を携えた状態は、少なくとも当人の感覚として、強さとは少し違うのであろう。ただ、その意識を持った上で、他者から見た評価はその限りではない。

 向き合えないから、鈍感になったのか。鈍感になれないから、向き合うしかないのか。全ての種類の者がいる。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth