新たに見つける自身における普通な側面
それまで大きく不足していた物質的な側面への欲求が満たされていく中で、同時に、何とも言えない違和感に曝されていく。
それまでのよくも悪くも安定していた自分から変化しているという、単純な状況の変化に対する不安感というものはあるのであろう。
そして、自分自身も変わっていく可能性への不安感。普通という枠の中に納まっていく自分。それまで自身が外側から見ていた人々と、同じ形に自分もなっていく。ゲームというシステムを作る側と行う側の様に、与えられた枠で喜ぶ様に。
私がそれと同じ状況にあることを否定しているわけでもなく、その状況を取り払おうというわけでもない。人は、枠を与えられると同時に、自身も枠の一部を提供している。
それまで普通に持っていた、ある側面への意識を自身に再認識させようとしているのであろう。つまりは、その意識の損失への危機感を抱いているということでもある。私の中でその意識の持続は、基本的には物質的に満たされている現状への違和感によって保たれていたのであろうが、それまで物質的に満たされていなかった自分への肯定によって保たれていたのかもしれない。
そして、現状への違和感という意識の常態化は、実際の行動としては、並大抵の意識の継続では務まらない。
ちなみに、物質的に満たされ過ぎている現代の先進的な文化の状況に憂い、呆れ、絶望し、その文化の流れに逆行する生活を嗜好する人々がいる。その方向に至る意識の過程は理解できるが、それはある種、現実からの逃避の様にも思えるのである。
実際に普通になっていく側面を自分自身に見つけることへの危機感であり、怖さ。平均・常識という枠の中で、平均・常識という自分だけで私は、その中で生きていくことはできるのであろうか。それは、精神的に、そして、物質的にも。社会という集合体において、所属する為の付加価値を如何に創出するのか。それが、広義な意味での働くということでもある。
自身の中に適度な常識というものを含ませるということも同時に、必要性として意識しなければならないことでもある。それは、常識というベースが社会にあるということでもあり、同時に、常識という枠を活用し、生きているということでもある。そして、彼らのお陰で、平均外においても、ある種の安定的な安心を得られている。
私の中で、それらへの感謝であり、評価を一定以上失いたくない。