週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

肩書きを作るということ

 「私は、○○のプロだから。」という言葉を、幾度か聞いたことはある。経営者を批判する事務方の人。給食費の回収に、苦悩している教師。意見を求められて、メディアの中立性を説く取材スタッフ。
 「○○のプロであって、○○のプロではない。」
 私も時に、そういう発言をしたり、自分に対して意識付けをすることもある。それ自体は、一つの固定化に必要な意識である。固定化によって、その側面は、強まっていく可能性が生じるのであろうから。
 ただ、時に言い訳に使っている様にも感じることもある。やりたくないことを、やらなくても良いと、やれなくても仕方がないとさせているのではなかろうか。もちろん、それらを習得しないことで、自分を追い込むことはできるのかもしれない。
 ただ、メインにおいて、引いてはならないラインが分からなくなったり、分かっていても、いつの間にか引いてしまっている可能性が出てくるのではなかろうか。
 常に、物事は、繋がっているのであろうし、数多の要素が混在して、その枠は、存在しているわけであるから。肩書きという形で、数多の要素に対して、強引に枠付けしているに過ぎないわけである。アフリカ大陸の国境線の様に。
 だから、極論、その肩書きが出来ていれば、その他の肩書きが出来なくていいとは言えないのであろう。ある意味では、事務方だって、経営できなくてはならないし、メディアだって、主義主張は持って、深めないとならないし、教師も時には、回収作業も出来なくてはならないのであろう。
 もちろん、だからといって、彼等が間違っているとは思わない。一つの正解の提示であるから。必ずしも、そうではないという可能性の提示であるから。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth