やる気
ある意味で、やる気の変動とは、表面的なものとも言えるのではなかろうか。行動における原動力の幾つかのエネルギーの総和に対して、一定の基準を超えた場合に、それを、単にやる気と捉えているに過ぎないのではなかろうか。
やる気という言葉の意味を問えば、単なる一つのエネルギーの単位の様なものでしかないのかもしれない。メートルやリットル、グラムなどの様な。だから、それ自体にそこまでの意義は、設けられていないのかもしれない。
行動原理ではないのであろう。やる気が無くても、本当にやらなければならないことは、やるわけである。やる気が無いからやれないというのは、言い訳でしかないのかもしれない。もちろん、人によるし、いくつかのタイプの様な分類は、されるのであろう。
見つけるもの、探すもの、出さなければならないものなのか。出るものではなく、出すものであり、出なくてもやるものなのであろう。やる気があるから、人は、行動するわけではないのであろう。ただ、動機はあるのであろう。やる気がなくなった先に、その動機が必要になってくるし、試されるのであろう。
やる気が必要な理由の一つは、人の行動の証明であり、評価が、思考ではなく、言動を基盤にしているからかもしれない。やや表面的な側面かもしれないが、一つの動機には成り得るのであろう。
深みというよりも、目新しさという意味で言えば、何故それをやっているのかということに、そんなに大した理由は、必要ないのであろう。言葉として表されるものとしては、同じことを言う人は、いくらでも居るのであろうが、その深さは、それぞれ違うのであろう。
やる気が出てこないという感覚は、私にもある。ただ、それが、やる気の問題なのか、ハードルや基準の変化によるものなのか。そもそも、やる気が自然と出てこないのであれば、その物事に対しては、根本的に出てこないのではなかろうか。