週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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作品を重ねる毎に、理論になっていくのであろう

 作品を重ねる毎に、理論になっていくのであろう。例えば、映画で言えば、その作品が、リメイクされる毎に。ただの単一の存在であったものが、それに体系が作られ、思考が加わり、思想が生まれ、理論として、一定の確立を得ていく。
 その作品をどの様に表現するか。それら幾つかの視点が折り重なっていく。一人の者によるものであれ、複数の者によるものであれ。基となるものを踏襲した部分、破壊した部分、否定した部分。その人における解釈の表現であり、それが、平均的な枠において、同じ類として認められるかどうかは、限らない話ではある。
 それらの作品は、完全に重なり合うことはないのであろう。ただ、重なり合う部分はあるのであろう。それらの重なり続ける部分が、太くなり、理論の土台であり、支柱になっていくのであろう。
 時に、一部の存在としか重なり合わないものもあるのであろう。それはそれで、その領域における一つのアクセントにはなってくる。そうではないという一つの例になるかもしれないし、他の領域との境界線を作らせるかもしれない。
 際を攻める存在。攻めることができる存在。攻めることしかできない存在。内から向かったにしろ、外から入ったにしろ。その枠かどうかの是非という論議を引き起こさせるということ。思想にしろ、文学にしろ、マナーにしろ。異端という存在によって、その枠の人々は、より自身の範囲を認識できるのであろう。そして、その重なり合っている中心部分は、正しさであり、常識として、認識されるのであろう。無意識の前提として。
 一つの競技における切磋琢磨という行為も、理論的には、似ているのかもしれない。だから、単独で成長する存在は、それだけで価値がある。ただ、その存在を評価する為の基準は、作り難くなる。陸上や水泳の様な時間というある種絶対的な価値基準がなければ尚更に。
 文化と言える範囲のものであれば、この考え方は、至極当たり前のことなのかもしれない。それが、どこにでも存在しえるということ。スポーツであれ、芸術であれ、科学であれ、文学であれ、倫理であれ。ただ一つの存在だけで、そのジャンルを構築することは、容易ではない。
 理論というよりかは、哲学といった方が近いかも知れない。理論そのものというよりかは、理論の成長といった方が正しいかも知れない。

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