週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

選択していない自分

何かどれも一長一短。
むしろ、全然ピンとこないに近い。
先日、とある友人に数年振りにあったから、そこら辺に関するものを書こうかとも思ったりもしたが、何か迎合感や違和感がある気がする。
まあ、そういう流れで書くというのは、一般的には割りと普通なのではなかろうか。
それを単純と思ってしまう様な性質は、私にはあるにはあるか。
ただ、凄いことをやろうとしているとも違う。
理論的には、整合性というか、理由は十分なのだが、乗り始められない自分が居る。
どこかで、拒否をしている自分。
たまに、心と体という2つの側面があると言われるが、心と体と自分の3つの様に思えてならない。
ある種その出来事と言う存在に流されて、その行為を行っているということだからなのであろうか。
衝動とも近いが、それは自身の内から湧き起こっている現象の様に思える。
その出来事に、やらされている、操作されているということ。
もちろん、有無ではなく、大小の話。
同時に、良し悪しではなく、それぞれに、それぞれが、必要な場面が違うということ。

そもそも、人は、様々な存在から影響を受けて、日々の行動が結果として、行われている。
他者はもちろんのこと、他の様々な存在から。
動物、植物、昆虫、微生物、建物、家具、風、理論、言語、概念、思想、、、
それらからの影響は、時に我々の知覚の範囲内でも、垣間見えることもある。
同時に、彼等も、私から、影響も受けているということ。
そして、それらは、一般的な認識や理解の範疇において、全く無関係とされていても、その範疇以上の距離においても、繋がりはあるのであろう。
ゼロではないという言い方は、無難であろうか。
ただ、非常に繋がりが太いかも知れないという可能性もあるのであろう。
接触する回数や時間は、一つの要素でしかないのであろうから。

ちなみに、脳科学的には、人は、行動の後追いで思考するということが、一部の実験では、立証されているらしい。
「思考してから、その選択によって、行動が行われている。」わけではないという実証結果らしい。
「へー。」とも思うが、「だから、なんなのであろうか。」とも思う。
実験は、簡単な選択におけるものらしいが、もし仮に、大小全ての選択においても同様のことが言えたとしても。
別に何でも良いということ。
実際がどうであれ、実感が重要というか、過程ではなく、結果が大事というか。
そもそも、現実が、想定通りの現実であるという保証などどこにもないわけで。
それでも、ほぼ全ての人々が、それを現実として、無意識の前提として受け入れているわけで。
我々の人生であり、世界が、誰かの一晩の夢の中の出来事でしかないのかもしれないし、何かしらの存在における妄想の一端でしかないのかもしれないし、誰かの創作の中の1ページでしかないのかもしれないし、はたまた書かれさえもしない部分かもしれない。
虚構の世界における虚構の存在だとしても、その感情は、一つの現実であり、真実であり、事実なのではなかろうか。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth