週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

日本の文化の一端への誇り

 ある意味での単純な親子関係や家族関係の構築に関しては、日本よりも、アメリカの方が、平均は高いのかもしれない。コミュニケーションを大事にして、子供の自立を重要視し、幼少期から促す。その中で、両親の考えに触れる機会も多いのであろう。その方が、子供は、楽なのかもしれない。自然と、自分で考えることやキャリアの構築に意識が向けられるのであろう。
 ただ、ある種、表面的な差違でしかない様にも思える。手法の違い。本質は、そこまで変わらないのではなかろうか。普通に、仲の良い家族の割合は、変わらないのではなかろうか。アメリカ人だって、素直になれない父も居るのであろうし、ダメな母も居るのであろうし、日本にだって、仲の深い家族は居るのであろう。
 会話をするから仲良くなるわけでもなく、しないから、仲が悪くなるわけでもない。そもそも、家族という定義において、仲の良さは必須なのであろうか。家族として、お互いに認め合えていないというのは、悲しいことだと思う。ただ、単純な家族という関係性において、所謂友達の様な形は、一つの良い形だとは思うが、決して、それが、正解とも思わない。本音を語り合えない家族だってあって良いと思う。本音を語り合えないから、仲が悪いというわけでもなく、本音を語り合わないと、絆が深くならないというわけでもないのであろう。逆も然り。もちろん、単純に仲良くなる、相手のことを知る切欠や可能性を担保することにはなるのであろう。ただ、機会が増えても、ベースの部分が無ければ、物事は成立しない。
 ある種、理想的な側面が、伝わってくるところはあるのであろう。実際は、その様な理想通りに完全な状態・形ではないということ。おそらく、海外に行って、良いと思った人しか、周囲には言わないのであろうし、海外が合うと思った人だけが、そこで生活して、その国が良いと、周囲に言うのであろう。同時に、その事象の良いと思った側面についてのみしか言わないのであろう。
 その風土にあったものがあるということ。そして、今のものが、風土にあっているという可能性の方が高いのかもしれない。だとすれば、そのベースの上で、マイナーチェンジするというのは、非常に必要であり、積極的に行うべきかもしれない。
 ちなみに、合っているかどうか、良いかどうかは、それを実行している個々人へのアンケートで分かるものではないのであろう。所謂、顧客とは違うのであろうから。もちろん、国家というものに関しても、一組織であり、国民一人ひとりが、それを利用する顧客としての側面であり、所属する社員であるという側面は、存在するのであろう。
 しなくて良いけれども、その方が、得だからしているというわけではなく、必要性があるから、していることなのではなかろうか。それをしなければならなかったということ。逆に言えば、そういう文化が無いというのは、それが必要ないからなのかもしれない。育まれなかったと取るか、無くても問題が無かったと取るか。
 メリットだけを集めれば、良いものが出来るというわけではないということ。長所と短所は、常に、表裏一体である。特徴における、欠点だけを指摘している様なものなのではなかろうか。
 それが、その地域においては、普通なのであろう。だから、別に、特出しているというわけでもないのであろう。日本において、特徴的であったり、長所に成り得たとしても、アメリカでは、極普通のことであり、みんなやっていることなのであれば、長所には成り得ないのであろう。
 ある種、我々の文化が犯されるということ。自然界で言う、外来種にやられるのと同じ様なことなのではなかろうか。原発やダムの建設によって、自分達の生まれた地元や故郷が、壊されるということと同じなのではなかろうか。それが、有形か、無形かの違いでしかない。無形異常に、形の掴み難いものでもあるかもしれない。
 この側面において、日本が、アメリカに劣っていたとして、私は、日本の今の関係性の構築の状況に、少なからず、ある種の誇りは持っているのであろう。良し悪しとか、好き嫌いとかではなく。例えば、「単純に、父に対して、好きであるとは言えないし、側面に対して尊敬の念は、もちろんあるが、総合的に所謂一般的な尊敬という意識は持てていないのであろうが、私は、私の父を、私の父であると、認識しているつもりである。」という様に。
 昔の人の厳しさというものによる強さというものは、ある種の対外政策だったのであろう。
 廃れていく文化を、保存させることに加担はしないのであろう。実用の中で、選んで活用するとは、別な話である。ある種、それが自然な流れだと思う側面も強いからであろうか。ただ、憂いはするのであろう。

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