週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

木の一生

 例えば、木の一生というものをどう捉えるか。我々のそれとは、違うのかもしれない。我々の思っている、木の一生とは、木にとっては、単に、外出しただけに過ぎないのかもしれない。我々が認識している一生が、彼等にとっての一生と同じとは限らない。
 同様に、彼等における本体が、我々の感覚における本体と同じであるとは限らない。木という状態は、我々で言う余所行きの、外出の様な形態なのかもしれない。そして、家で寛ぐ姿は、我々には、認識できないのかもしれない。我々だって、実際に、他者のそういった姿を見る機会の方が少ないのであろう。
 種だって、十分に既に一つの個体として、生命を営んでいるのかもしれない。種として、存在を始めて、種のまま、その一つの区切りを終える。その中で、極少数の種が、時に巨木へと成長する。例えば、人において、多くの他者に影響を与える様な者など、一握りであり、同じくらいの割合なのかもしれない。
 木に対して、個として認識している単位も、違うのかもしれない。一本の木に対して、一つの個として、我々は認識しているのであろう。二本であれば、二人、林や森であれば、集団として。それが、正しいのかもしれない。ただ、同時に、違うのかもしれない。どちらも正解なのではなかろうか。そのどれに対しても、存在があるということ。
 もちろん、それは、我々にも同様に言えることではある。一つの存在としての区切りをどこに設定するか。我々は、個々人に対して、それぞれ一つの存在として規定している。それと同じ様に、一つの集団に対して、一つの存在として、規定することもできるということ。国家などは、分かり易いのではなかろうか。銀河を一つの個という存在として、認識することもできる。逆に、個人それぞれの中にある細胞一つひとつに対しても、一つの個として、存在として、認識することは、出来るのであろう。
 そして、それらは、どれも、同列に比べることが、出来るのであろう。
 また、存在としての認識は、物体であり、物理的な存在という、視覚によって認識されているものに限られているのであろう。音や匂いというものにも、それぞれに存在があるとも言えるのではなかろうか。それらにも、自我があるのかもしれないということ。同様に、思想や論理というものも、一つの存在では、あるのであろう。我々が、思想や論理を形成したのか、彼等が我々の前に現れただけなのか。
 ちなみに、言語化という行為とは、創造とも言えるのであろうし、基になる存在を我々の認識内に、召喚していることとも言えるのであろう。

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