週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

沢田研二

 今年の9月に、沢田研二が、コンサートを開演数時間前に、ドタキャンしたというニュースがあった。観客の不足が原因らしい。事前に、主催者とは、約束されていた項目ではあるらしい。
 どっちがプロとしての意識が高いのか。自分が満足というよりかは、万全ではない状態、どうしても十分なパフォーマンスを披露できない状態でも上がるのが、プロなのか。その差違が、観客であり、他者に分かるかどうかは、別にして。もちろん、どちらも正解ではあるが。
 一つは、出勤すれば良い職業というわけでもない。いつも安定的に存在することの意義と、その者だけが提供できるものという意義は、違う。サラリーマンを侮辱しているわけでもなく、軽視しているわけでもない。
 役割の違いであり、その役割の側面における大小の違い。サラリーマンも、ミュージシャンも、常に全員、両方持っている側面であり、必要な側面。有無ではなく、大小の話。
 人としての価値であり、敷いては、命というものの価値は、平等ではないのかもしれない。平等でなくて良いとは思わないが、平等であるべきとも思わない。平等・不平等というよりかは、傾向的な序列はあるのであろう。国家という枠組みも、組織であるということには変わりはないのであるから。
 平等という概念もある意味では、序列的とも言えるか。ある種の抗えない序列性とも言える。
 個人的には、どちらでもないが、中止という選択肢の用意は、癖になってしまうと思っている。ダメでも、出せば良いというわけでもない。ダメな時のものも、味に出来れば良いというか。最期まで、やり切る癖というか。やり直しの無い緊張感とも近いか。
 まあ、彼の域であり、状態でしか分からないことはもちろんあるのであろう。また、これくらい潔い方が、主催者側も、覚悟が決まるというか、緊張感はあるのかもしれない。
 観客が少なくても、コンサートが好きだから、やりたいからやるというのも良いが、求められているならやる・求められていないならやらないというのも、別に、良いとは思う。
 聞いて下さいと、向かっていって、喋ることと、聞かせてくださいと言われて、喋ることは、全く別物でもある。相手に聞いてもらう為に、喋ることで提供されるものと、相手に求められて喋ることで、提供できるものは、違う。実際に、そういった行動があるかどうかを別にしても、違う姿勢になるのであろう。また、自身が、喋りたいことを喋るという側面と、相手が求めることを喋るという側面でも、また違うのであろう。
 自身の姿勢を崩すということでもあるのであろう。その姿勢でしか出せない、提供できないものもあるということ。
 今回の騒動に対して、「彼らしい。」という様な旨のコメントも散見されるが、何が彼らしいと言うのであろうか。別に、やりたくてやったわけでもないし、彼なりの哲学の上で、自然に判断し、決断しただけなのであろう。そこは、別に、同じ状況で、開催する人と何も変わらない。気分屋でもなく、いい加減なわけでもなく。逆に、周りに流されて、開催することの方が、意志という意味では、二流なのではなかろうか。

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