週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

「1+1」

 「1+1」は、なぜ「2」なのであろうか。「3」でも良いのではなかろうか。1つのものと、1つのものを足して、3つになっても良いのではなかろうか。
 そう決めたからか。ルールや規則だからか。あなたの中の自分で答えを導いたものが、正解でもある。
 1つの意見を提示することは、幾らでもできるし、提案することは楽しいが、説得は、別に興味はない。

 1つのルールであるとも言えるが、それは、果たして、ルールなのであろうか。誰かが作ったものなのか。協議の結果決まったものなのか。ルールであれば、破れるものであり、破られるものなのではなかろうか。ただ、漠然とではあるが、破れる気は、あまりしてこない。法則の様にも思えるか。作ったものや決めたものなのか、もしくは、見つけたものなのか。まあ、数学者に聞けば、少なからず、情報は、貰えるのであろう。
 今までのルール達にも、我々の中に、残っていったものと、去っていったものがある。残ったものは、残るべくして、残ったのだとすれば、作られたというよりも、見つけられたということの様にも思える。我々によって、新たに作られたルールというよりも、前からずっとあった法則を、我々が見つけた様に感じられる。また、ルールという概念には、脆さや薄さがある様にも感じられる。
 まあ、ルールと法則の差違は、単なる比較とも言えるのかもしれない。根本的な違いがあるというわけではないということ。有無ではなく、大小であり、距離感的な違いでしかないのかもしれない。単に、法則が、より深い位置にあるに過ぎず、ルールも、永い時を経れば、法則と化すのかもしれない。

 変わった答えを提示するのも面白いが、その過程にコストを割くのも面白い。答えの提示は、表面的であれば、出し易くすることもできる。過程が必要ないから。
 「1+1」の先には、何があるのか。「2」だけではない。数字だけではない。記憶や感情だけではないのかもしれない。思想や意識でされないのかもしれない。タオルがあり、牛丼があるのかもしれない。
 「1+1」が「2」でも、良いとは思うが、「3」かも知れない。「3」の場合があるのかもしれない。ある1つの状況や公式において、それは、全く可能な話ではある。いくらでも創り出せるし、実行もできるのであろう。同時に、別に所謂「1+1」が「3」になる可能性も、もちろん、あるのであろう。
 ただ、別に常識が変われば良いという話でもない。同時に、なぜ所謂「1+1」が「2」とされているのか。その1つの常識が担っているもの、作っているもの、支えているもの、壊しているもの、虐げているもの、救っているもの。

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