週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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補完

 子供達の集団において、ある一人の騒がしい子がいて、その子がいなくなると、別の子が騒がしくなるということがある。
 大人は、そうでもないのでは。良くも悪くも。それは、自分の領域が、決まっているからであろうか。ということは、逆に子供は、領域が決まっていないから、騒がしくなるのか。同時に、助けてくれる子も、いなくなれば、ある程度補完する様な気もする。逆に、大人は、そうでもないというか。
 子供にとって、自分の行動範囲が狭いからなのか。その中で、生きていかなければならない。だから、その中で、自分を役立てようとするというか。
 子供だけの集団というわけではなく、大人に統治されている子供の集団という前提での話。

 ある意味で、騒ぐのも、役割の補完における一形態とも言えるのであろう。おおもとは、一つの役割の者が去り、それを補完しているだけなのでは。その表れ方であり、役割の遂行の仕方が、単に、悪い形で出たというか、管理者の様な立場の大人にとって、都合が悪いというか、悪さが目立つというか、悪く見えるというか。
 そういう意味では、根源的には、してくれているとか、誰かの為にとか、助けたいとか、役に立ちたいという行動原理ではないのであろう。その場に、それまであった側面が欠落し、場が一時的にでも不安定になる中で、その安定を図る為に、欠落した部分を補おうとしているというか。自分がその不安定感に耐えられないからなのか。
 おそらく、欠落しても、しばらくすれば、その場における枠が、また新しい形に変わっていくというか、逆に、我々が動かなければ、枠が変容するしかなくなるのであろう。だから、補完しても、以前と全く同じになるというわけでもないのであろうし、多少は、枠も、変容はしているのであろう。

 単に傾向の話であり、大人も別に、そういった側面がないというわけでもない。ただ、大人は、場に対して、冷静というよりも、動きたくない、変わりたくないという様に感じられるか。
 必要性もないのか。動く必要性、変わる必要性。子供は、動かなければならないのか。自分の必要性を、作り出さなければならないからか。単純に、アイデンティティ的な話なのか。それは、より内実的・深層的か。というよりも、それらの前提というか、外壁・外堀の様に思える。それが、あるかないか。社会の中で、生きる為に必要な安定性の確保というか。
 単に、前に出て行きたくないという話なのか。だとすれば、世代によって、違ってくるのであろう。ただ、それは、有意識による判断が、大きいところの話にもなってくるのか。それよりも、無意識層での判断や行動原理が大きい様に思える。
 頭で考えているからか。単純に、その人がいなくなったということやその人が担っていた役割・肩書きの欠落として、認識するのであろう。それは、ある意味で正しいし、大まかには、合っているのであろう。ただ、その欠片の形は、その人であり、その人が担っていた役割によって、千差万別なのであろう。
 単に、子供と大人での同じ対象における存在の大きさの違いか。大人にとって、小さなことでも、子供にとっても、大きいというか。ただ、重要というよりも、単純な大きさ・広大さの違いなのであろう。まあ、根本的には、大人と子供だけでなく、個々人に差違はあるのであるが。

 例えば、習い事という側面で言えば、大人は、サービスを受ける側という感覚になるのか。尊敬の対象になれば、また別か。ただ、子供が、尊敬の対象であるから、手伝うというのは、ちょっと違う気はしている。それも一つではある。ただ、割合として、単純に、あんまり考えていないとも言えるのか。「手伝って。」と言われたから、手伝うというか。そういう意味では、大人は頭で考えているとも言えるのか。単に、家庭などで、そう刷り込まれている様な部分もあるのか。
 ただ、子供が、単純に純粋かどうかは別な気もする。根本的に純粋と無知は、また異なるのではなかろうか。まじりけがないということは、一つの基準であり、枠であり、定義におけるものでしかない。どこまで、単一になろうとも、それは、常に、複数の存在が混在したものに過ぎないのであるから。

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