時という錯覚の上で生きているのかもしれないということ
我々は、時間に追われているのであろうか。
我々が、時間を追いかけているのではなかろうか。
時に、時間の経過を待つこともある。
時間に押してもらっているのかもしれない。
時間に、引っ張ってもらっているのかもしれない。
時間という存在を捕まえようとしているのかもしれない。
そもそも、時間は進んでいるのか。
変化という現象を時間の経過と錯覚しているだけなのかもしれない。
時間なんて、存在しないのかもしれない。
変化という現象に対して、我々の理解において、時間の経過というレッテルを貼ったに過ぎないのではなかろうか。
そもそも、時間が、真っ直ぐに進むという先入観があるのではなかろうか。
蛇行しているのかもしれないし、円形に回り続けているのかもしれない。
時間は、真っ直ぐに進んでいる様に見えて、知覚できない程度に緩やかに曲がっているのだとすれば、いずれ戻ってくるのであろう。
同時に、未来から今、今から過去に対しても、影響があるとは言えるのであろう。
その偉人は、彼に感銘を与える為に、生きたのかもしれない。
過去があるから今がある、と同時に、未来もあるから今が定められる。
人の人生とは、今という瞬間における自分のスライドの連続でもある。