伝えたいという意識の大きさ
仲間という存在を求めている意識は確かにあるが、それは本質的には周囲を変えるというものではなく、探索と待望という形に表れる。
他者に対して特別に伝えたいことなど、持ち合わせてはいないのかもしれない。愚痴という、ただ聞いて欲しいだけのものはあるが。ただ、それぞれにそれなりの不満や理不尽は抱えているものである。
他者に対して何かを伝えようとすること。楽しみや魅力であり、危機感や権利などであろうか。その者達の心理はどういったものなのであろうか。少なくとも、当人が得たものは、それは、当人の中で抱えられないほどの大きさなのかもしれない。
時には、その想いだけで一生を費やしている者もいる。費やせているとも言えるのか。そんな彼等が羨ましいのかもしれないし、そんな彼等を蔑んでいるのかもしれない。ただ、少なくとも世間の常識が正解とは限らない。
ある者においては、ある時点において、その対象への思考を停められるのであろう。それは、その思考が一つの不変の定義や定理の様なものになるということ。彼等にとって、ある意味で、変化させる必要が無いとも言える。それが彼等の役割なのであるから。
ただ、それだけでは、彼等の役割の認識は行えているとしても、本質的に彼等の存在意義を認識できてはいないのかもしれない。