週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

終わり

 最近は、爪を切る回数がふえている。深爪をしない様にしているので。伸びたら切る。髪とかも同様に。何だか、虚無感的なものは出てくるか。一生続くのかと。
 髪が伸びれば、散髪して、お腹が空けば、飯を食い、性欲が溜まれば、自慰をして、尿意を催せば、小便に行き。終わりが無いというか。一つが終れば、一つの始まりで。
 落ち着けるということが無い様にも思えるか。タスクが無くなることがないというか。
 まあ、ゼロというのも、正と負が、同じ値になっているというだけだから、そういう意味では、常に、生産と消費がされているのであろう。そういう意味では、循環か。生産や消費も、移動とも言えるから。生産が、やってきて、消費が、去っていく。
 死は、どうなのか。人の個人としての終わりは、規定できるとは思うが、それも、人類という一つの個体の一部に過ぎないのであろう。絶滅というのも、一つの個体としての終わりに過ぎないということか。個も、何かしらの個の一部に過ぎないのであろうから。
 終わりとか、区切りって、本当は、無い様に思えるというか。もちろん、日々の中で、実感はしている。仕事終わりとか、テレビ番組や連ドラの終わりとか。今日が終れば、直ぐに明日は始まっている。終わりと同時に、始まる。
 死ぬまで続くのか。ただ、死も終わりとは言えないのでは。死は消滅であって、終わりではないのでは。
 終わりを実感出来るのは、やることが本当に無いと思えることなのか。それは、所謂、老後の第2の人生なのか。年齢や状況的なものなのか。老後という年齢で、ある程度の蓄えがあるという状況であれば、また違うのか。
 試合などは、終わりを規定するルールがあるから、終わったと思えるのではなかろうか。つまりは、本質的には終わっていないとも言える。単に時間という側面における終わりに過ぎないというか。仕事もクビになれば、終わりなのであろうが、それは、契約によって、規定されているから、その側面において終わりになっているに過ぎないというか。結婚や恋愛も同様か。
 終わりとはどこにあるのか。どれなのか。それは、単に規定したに過ぎないのでは。その飲み会を我々の認識としては、終わりにしている、終わりと規定しているだけというか。その時に集まった、そのメンバーの飲み会と規定した枠や存在は、終わっていなくて、存続し続けているのではなかろうか。
 つまりは、終わらずに、残り続けるということか。だとすれば、逆に、始まりはあったのか。そもそも、終わりがないなら、始まりもないのでは。元々ある、一つの流れに乗って、降りたということなのかもしれない。元々ある、流れている「その時に集まった、そのメンバーの飲み会と規定した枠や存在」に乗って、降りる。
 思考も考え続けているのか。同じ事象を何年間もというのは、実感としては、し難いか。やはり、途切れてはいるのであろうか。だとすれば、思考というものを、その一つの場への参加と捉えれば、理解し易いか。その事象への思考の場へ、私の意識を参加させているということなのであろう。

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