週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

                        <お知らせ>
                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

普通に扱って欲しいという欲求


 特別扱いという通常、普通に扱うという異常。普通ではないから特別に扱うのは、普通なことなのでは。例えば、障害者を、普通に扱うということの異常さ。それは、地位や権威のある者に敬意を払うのと同じなのでは。そもそも、健常者に対しても、気は使っている。それが、普通の範囲であれ、異常の範囲であれ、それは、当たり前のこと。
 確かに、普通のことも出来るのに、手伝ったり、配慮してしまうのは、勿体無いとは思うか。地位や権威のある人でも、普通に接せられることを、求めている人もいたりはするが。つまりは、距離感の問題なのかもしれない。
 足が無い人に、車椅子を使うなというわけでもないのであろう。その人に合わせて、対応してあげるということなのであろう。その人が可能な精一杯のギリギリをいけば良いということなのか。
 でも、それは、世間の普通の人々にとっては、非常に難しいことでもある。世間は、どっちかにしたがるから。○か×か。
 だから、ある程度の社会的な配慮を求めるのであれば、付いてくるものとも言えるのでは。特別扱いを望まないのであれば、同時に、社会的な配慮の一切を拒否する必要は、あるのかもしれない。
 逆に理解できない相手への配慮は、していないのであろう。そういう意味では、当人も、当人が否定している他者であり、その側面と、同じことをしていることにはなるのであろう。
 自分がみんなと違うということを感じさせられるのが、嫌なのか。それは、極論、自分を受け入れられていないのではなかろうか。
 普通に扱われるのが、そんなに良いのか。普通に扱われるということの大変さを、まだ知らないだけなのでは。もちろん、知らないことを知りたいという欲求は、誰にしもあるものではある。
 期待をされないということか。他者に求められない。優しさにおける、甘さと厳しさの違いか。だったら、自分で、その領域を作れば良い。需要は求めるものではなく、探すものであり、作り出すもの。

 異常な存在に対して特別扱いをして、その対応を異常と捉えて否定して、意識的に普通という定義での扱いを行うということが、普通ということなのかもしれない。
 世間における才能という概念への認識は、他者達の平均から逸脱し、時代に適合した差異である。ある種、彼らは、生まれながらにして、既に巨大な才能を抱えているのであろう。ただ、それを、活かせていないだけ。それは、時代のせいなのか、周囲のせいなのか、自分のせいなのか。時代に、適合させれば良いだけ。
 彼らが、盛隆を望むのか。そもそも、望まないから、障害を抱えて生まれてきたのかもしれない。


 例えば、足でギターを弾く人。「目を瞑って、聞いて。」と言う。
 ただ、根本的には言い訳になるのではなかろうか。それが、公正な評価なのか。本質的に良いのであれば、それが、何であれ、評価は、後から付いてくる。そもそも、実力だけで、売れている人達ばかりではないのであるから。色物扱いで売れても、実力があれば、少なからず、評価は、されてしまうもの。
 誰に評価されたいのか。本質を分かっていない民衆なのか。本質を分かっているプロに評価されたいのではないのか。だったら、目を見開いて、聞いてもらうべきなのではなかろうか。
 相手の土俵で勝ちたいと思うのは、自信がないからなのであろう。自信があるのであれば、別に評価を気にしないのではなかろうか。相手が、自分よりもレベルが低いと思っていれば、別に、褒められても嬉しくないし、批判されても、悲しくはならない。

 健常者と同じにしたら、プロというレベルで言えば、別にそこまで凄くないのかもしれない。そもそも、テクニックを売りたいのか。表現者とは、テクニックを売るのか。アーティストであり、ギタリスト然り。それも、一つではある。ただ、音域が無くても、声量が無くても、評価されている歌手もいる。
 上手いだけならいくらでもいる。彼等がなぜ評価されないのか。彼等に必要な要素を、彼は、存分に保持しているのかもしれない。なのに、彼等の土俵に、態々行って、勝ちたいのか。別に、それがしたいなら構わない。才能を活かすことが幸福とは限らない。ただ、私は、彼にしか出来ない表現の深化を、見たいとは思う。
 手の方が、技術的には、上かもしれない。超えられない壁があるのかもしれない。ただ、不便なことを態々やって評価されているものなど腐るほどいる。スポーツ選手何て大概そうなのでは。実生活で、役に立つ機会など、ほとんどないと思う。100mだけ早くて、どうするのか。泳ぐより、横を歩く人の方が早い。ハンマーを投げる機会なんて、絶対と言っていいほどない。
 足で奏でるということの意義を創出していけば良いのでは。健常者の常識の中で、足は、手よりも不便である。だからこそ、驚かせられるわけである。その特性を活かすのは、ダメなのか。
 根本的に、手と足では、奏でる音の質は、異なるのであろう。ピアノでも、男性と女性で、合う曲が違う様に。足でしか、奏でられない音がある。足で弾いているという認識の上でしか、与えられない音があるのであろう。健常者の中で、足で弾く者が出てきたら、一つの段階が過ぎているのであろう。
 評価される為に、しているのかもしれない。自分がされたい評価の仕方。ただ、人それぞれに、自分のベクトルがあり、素質や才能は、既に持っているとは思う。平凡が出来るというのも、ある種の才能。平凡しか出来ないというのも同様。天才という行為しか出来ないというのも同様。

ⓒ 2015 週刊Coelacanth