週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

無意識の前提化

 例えば、感覚派と理論派という分類があるとする。その上で、ハイブリッドという存在もあるのであろう。時にそれは、中途半端に見えるのかもしれない。
 ただ、何処に基準を据えるかの違いであり、ハイブリッドを主軸にすれば、感覚派や理論派という軸も、中途半端に見えてくるかもしれない。また、単純な分類の仕方の違いだけでなく、そもそもの競技の違いによっても、また変わってくるのであろう。
 逆に、「ある常識」の中では、感覚派と理論派という軸が無ければ、ハイブリッドという軸は、存在できないとも言えるのであろう。
 同じく、「ある常識」の中では、白という概念と、黒という概念の上で、灰色という概念が、成立できているとも言えるのであろう。
 単に、白や黒は、端に存在していたに過ぎないのに、基準としての役割を与えられたとも言える。また、灰色という存在によって、黒や白の立ち位置は、より明確になるのであろう。

 会うから親しいというわけでもないのであろう。同じ時間を長い間共有しているから、親しくなるわけでもない。
 同じ場所に居ることが、同じ時を過ごしているとは限らない。同じ場所に居ないからといって、同じ時を過ごせていないとは限らない。
 それは、お互いに、意識をし合っていることが、常に必須ではないのであろう。
 そして、場所だけでなく、時代や種などにも言えることなのであろう。過去であり、未来の人物、物質や自然、思想、理論などとも対話は、出来るのではなかろうか。なぜ、彼等に、意識、思想、意志、存在が無いと言えるのか。

 必ずしも、無意識の前提が悪いというわけでもなく、有意識化すれば良いというわけでもないのであろう。ある意味で、有意識化の未熟さによって、人々は、生きられており、無意識の前提によって、世界は、作られているという側面もあるのであろう。
 理解というものも、し過ぎれば、時に、無法的にもなり得るのかもしれない。同じ様に、有意識化させ過ぎることによる弊害もあるのかもしれない。それを見据えて、今の有意識化の度合いになっているのかもしれない。
 もちろん、私の好みとは、また別な話ではある。

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