無意識の前提化
例えば、感覚派と理論派という分類があるとする。その上で、ハイブリッドという存在もあるのであろう。時にそれは、中途半端に見えるのかもしれない。
ただ、何処に基準を据えるかの違いであり、ハイブリッドを主軸にすれば、感覚派や理論派という軸も、中途半端に見えてくるかもしれない。また、単純な分類の仕方の違いだけでなく、そもそもの競技の違いによっても、また変わってくるのであろう。
逆に、「ある常識」の中では、感覚派と理論派という軸が無ければ、ハイブリッドという軸は、存在できないとも言えるのであろう。
同じく、「ある常識」の中では、白という概念と、黒という概念の上で、灰色という概念が、成立できているとも言えるのであろう。
単に、白や黒は、端に存在していたに過ぎないのに、基準としての役割を与えられたとも言える。また、灰色という存在によって、黒や白の立ち位置は、より明確になるのであろう。
会うから親しいというわけでもないのであろう。同じ時間を長い間共有しているから、親しくなるわけでもない。
同じ場所に居ることが、同じ時を過ごしているとは限らない。同じ場所に居ないからといって、同じ時を過ごせていないとは限らない。
それは、お互いに、意識をし合っていることが、常に必須ではないのであろう。
そして、場所だけでなく、時代や種などにも言えることなのであろう。過去であり、未来の人物、物質や自然、思想、理論などとも対話は、出来るのではなかろうか。なぜ、彼等に、意識、思想、意志、存在が無いと言えるのか。
必ずしも、無意識の前提が悪いというわけでもなく、有意識化すれば良いというわけでもないのであろう。ある意味で、有意識化の未熟さによって、人々は、生きられており、無意識の前提によって、世界は、作られているという側面もあるのであろう。
理解というものも、し過ぎれば、時に、無法的にもなり得るのかもしれない。同じ様に、有意識化させ過ぎることによる弊害もあるのかもしれない。それを見据えて、今の有意識化の度合いになっているのかもしれない。
もちろん、私の好みとは、また別な話ではある。