そこにあるものに。
「忌憚なく言わせてもらえば」や「誤解を恐れずに」という言葉を使っている時点で、既に忌憚や恐れを抱いているとも言える。
ニュアンスの違いへの賛否は、あるのであろう。そうではないという意見も分かる。
ただ、そこには、少なからず、何かしらの不安があり、ワンクッションを必要としているのであろう。それは、保険をかけているとも言えるし、相手から逃げているとも言えるし、相手への不信の表れとも言える。
もちろん、その言葉を使うことで、一歩を踏み出せているのであろう。また、無難さは、確実さとも言えるし、時には逃げることも必要であるし、相手への配慮とも言える。
その引いてしまっている側面によって、その両者個々に対してであり、その間に、積み上げられるものは、減っているのかもしれない。それらの言葉を用いずに言うことであり、言ってもらうことによって、得られるものや作り出せる結果における、量であり質は、違ってくるのであろう。
「聞く」ではなく、「聴く」という言葉を使う時、その者の意識の中には、おごりが生じているのかもしれない。それは、聴くという行為ではなく、聞くという行為なのかもしれない。
Aさんの聴くは、Bさんの聞くと同等かも知れない。また、Bさんの聴くは、Cさんの聞くと同等かも知れない。そして、Cさんの聴くと、Aさんの聴くとは、大きな隔たりがあるのかも知れない。ただ、もしかしたら、Cさんの聴くは、Aさんの聞くと同等かも知れない。言葉という存在における一つの指標であり、一つのレッテルという側面。
本質的な序列において、聴くという行為が、聞くという行為の上位に来るとは限らないのであろう。それぞれの役割分担があるだけなのではなかろうか。