理解と認識
凄さというのも一つの常識でもあり、理解がされるということも、その事象における一つの凡庸さを表しているとも言える。その事象における凄さの理解ができないということと、認識ができないということの違い。そして、他者が認識できないということに対して、価値を持つということ。
表現に対する、分かりやすさという無意識の前提による制限。辞書は、一つの平均を保持しているに過ぎない。ただ、狭く深い存在によって、広さと浅さを作り出し、広く浅い存在によって、狭く深い存在を可能にする。
相手の言葉への理解という行為は、相手の意識に対して、そのベクトルにおける新しい扉を開かせるということとも言えるのではなかろうか。